自分(の現状)を赦すことで、進める旅があります。
それに反発する人がいます。
それと似たことを、英語や楽器の習得で見ることもあります。
英語の勉強を相談されたとき、片言で話すテクニックを勧めます。
しかし、ペラペラじゃないと人に非ずと思っている人はそれを拒否します。片言なんて赦せないのです。
楽器では、ドレミ、ドレミと引く練習をお勧めします。
しかし、ツェッペリンの名曲じゃないとイヤだと拒否します。
しかし、ドレミ、ドレミを楽しめない人が、ツェッペリンを弾く日は永久に来ないのです。
自分は片言がやっとである、ドレミがやっとである自分を排除することで、ペラペラやツェッペリンにはなれないのです。
「英語を話せないのは人に非ず」と周囲は言います。そんな中で、自分を赦した人のみが、英語習得の旅に出ることができます。
「英語ペラペラを目指す」と数年間も言い続けて、実際に何もしていない人はいます。
特徴として、ペラペラじゃない自分は存在してはいけないという信念を持ってます。
赦しているから練習しないのではなく、赦していないから練習できないのです。
「許してみたら、もっと悪くなったぞ」という声はよく聞きます。
それは赦すということを知らないのです。
それは「叱らない」というような消極的なことではないし、「あなたはそのままでいいのよ」というアレでもありません。
それは秘技のようなものです。簡単とは言いません。
「赦す」と言うと、甘い印象を受ける人がいますが。
「赦す」のは、心理セラピーの現場では、大きな命がけのチャレンジになります。
「殻を破る」なんてことの方が、よっぽど甘いです。