親をゆるす、ゆるさない、そして本人中心療法

親の苦しみを背負う広義トラウマ

(親からの)被虐待トラウマ、もしくは被虐待を背景とする広義トラウマの心理セラピーの場合は、加害側である親の苦しみのようなものが感じらることがあります。

ご相談のテーマとして親の苦しみを扱うという意味ではありません。風景の中にそれが見えてしまう感じがするのです。

一般の暴力被害トラウマの心理セラピーでは、そこまで加害者の苦しみというものが浮かび上がらないように思います。加害者にもなんらかの苦しみがあるかもしれませんが、そこはクライアントのテーマにあまり関係がないということでしょう。

加害したものが災害、他人、親では、そのような違いがあるように思います。心理セラピーのプロセスとしては共通点もありますが、やはり「それは誰?」というのは教えていただかないとセラピストとしても捉えにくいのです。

「ゆるしたい」と「ゆるせない」は同じ

で、親をゆるすのかというと、それはクライアント本人が決めます。「ゆるしたいんです」と言う人もいるし、「ゆるせなんです」と言う人もいます。

人の支援にかかわる方々は、本人や子供が中心だと言いながら、いろいろな意見を主張されます。ですが、私は本人次第かなと思います。

※person centerd approachは、人間中心と訳されますが、私はかってに本人中心アプローチと訳しいています。

まあ、本人が決めるということです。ですが、セラピストである私に意見や世界観がないということではありません。

コーチングや非指示的カウンセリングで、機械的に「そうなんですね」と言うのが昔流行りましたが、そういのでもないです。

私が感じることは、「ゆるしたいんです」と「ゆるせないんです」は同じことなんだろうなということ。

私は心理セラピストだからなのか、あんまり言葉を聞いていないです。「それを言っている」ということを聞いています。

同じに聞こえます。

起きていることは同じってことでしょうか。

たとえば「ゆるさないといけないと思います」とかなら違うと思います。

心理セラピーで起きるゆるしは、まあ言うなれば、それに人生を支配させるのをやめるってこと。

ゆるすということは、ちゃんと怒ることでもあります。だから、それは「ゆるせない」と言えることと同じことなのでしょう。

それらは表裏一体となっていて、言葉はたまたま溢れ出たヒレのようなものです。

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