Kojunの心理セラピーの客層は根本解決を探している人たちが殆どです。いろんか実践をしてきて、それはそれで役に立ったけど、根本解決ではなかったとおっしゃいます。
そのことは、深層心理セラピーということと関係しています。
深層心理を扱うことが根本解決につながるとはどういうことか、書いてみようと思います。
深層心理に隠されしもの (the hidden)
悩みの背景には、原体験の記憶、解釈気分のイメージが隠れていることがあります。
たとえば、「独りで仕事を担当することができない」「つねに騒いでいないといられない」「沈黙がこわい」という悩みがあったとします。心理セラピーをしていると、こんな心的イメージが出てきたりします。
「子供の頃に、独りで皿洗いをしていた。賑やかな食事のあと、急に独りになって皿洗い。そのシーンとした状態で食器がたくさんある状態。延々と続く皿洗いの間に、みんないなくなってしまう」
他にも、こんなのもあります。
「父親と二人きりになると叩かれる。その状態になってしまったときの、なんとも恐ろしい絶望感。そして、叩かないときのお父さん助けてと心のなかで叫んでいる自分の声」
このような心的イメージ、それは原体験の記憶だったり、繰り返された感覚だったり、とにかくありありと感じられるリアリティが心の奥にあるのです。
それは、理路整然としない、ちょっと不思議なイメージだったりもします。子供のころというのは、心的表象が感覚的で、論理・言語的ではないからでしょう。
浅層での応急処置
この心的イメージを深層心理がもっている状態で、浅層のメソッドを実践するとどうなるでしょうか。
たとえば、上述の「独りで仕事を担当できない」という悩みに対して、スモールステップで独り作業をやってみる。たぶん、少し役に立つでしょう。応急処置になるというか。少しずつなら出来るかもしれません。しかし、なんか辛い。どんどん調子が出てくるというよりは、油断するとまた出来なくなる。
これがクライアントたちの言う「根本解決ではなかった」ではないでしょうか。
他にも、「独りで仕事できるよ。少しずつなら大丈夫」と自分に言い聞かせるセルフトーク(自己教示訓練)という方法がありますが、これも応急処置にしかならないかもしれません。実際、トラウマには効果がないと言われています。
他にも、独りで仕事を担当できない理由、心配事を挙げて、それらを論駁してゆく方法などもあります。これの一時的に効果があるかもしれません。
上述のような心的イメージ(深層に隠されしもの)を隠し持ったままだと、どうしても無意識の力によって、努力による行動がくじかれてしまうわけです。あるいは、逆に無意識の力によって、やめようと努力している行動や反応が復活するのです。
深層セラピーによる根本解決
隠されしものの発見
深層心理セラピーによって、心的イメージにたどり着いたとき、「あー、これにはかなわないな」とわかるでしょう。「こんな圧倒的なものに立ち向かおうとしていたのか」と。
解消するためのステップは、(1)隠されしものの発見と、(2)その癒しです。
発見はよくワークショップなどでやられている「気づき」よりも深いです。深いというのは、感覚的だということです。
本に書いてあることが自分にも当てはまる、「わー、これ私のことだあ」というのも、頭で解っているつもりというやつで、ぜんぜんリアリティに到達していないのです。
「私がこうなのは、子どもの頃にこんなことがあったからだと思います」というようなことは、セラピーを始める前から薄々気づいてはいるのですが、それは準備にすぎないのです。
隠されしものの発見というのは、ありありと今ここで体験しているかのごとく、その感覚がわかる体験です。「食事の後のシーンとする感じ」「独りになるぅーという恐怖が押し寄せてくる感じ」、そういった非論理的な感覚が再現されてこそなのです。
それは「知る」「気づく」というより「この目で見る」「いま聞こえる」「圧迫や押し流される感じがする」という感じです。
その五感に近いものを思い出したとき、自分を止めていた/反応させていたものの正体が見えるわけです。
もちろんこれは隠されている、抑圧されているわけですから、なかなか出てきません。セラピストが積極的に働きかけたけど、なにも起きないなんてことになるのです。つまり、深層心理セラピーはセッションが滑る可能性のある、セラピストが恥をかく可能性のあるセラピーです。
なので、手順が標準化されたメソッドや、ひたすら傾聴するアプローチに比べると、滑る恐怖を克服というハードルがあり、続けているセラピストは少なくなります。「あいつのセラピーは成果がでないぞ」とか言われるかもしれなくても、続ける覚悟がいります。
では、Kojunはなぜ続けられているのかというと、自分自身が「隠されしもの」を何度も見たことがあり、それが人間の人生を支配していることを、実体験として知っているからです。そして、それが解消すると人が幸せになることも、自分やクライアントの体験によって知っています。
「セッションが滑るのは、クライアントが心を開かないからだ」とセラピストは言いたくなります。それも間違ってはいないです。ですが、クライアント視点からすると、心を開けるセラピストを探す必要があることうことになります。
隠されしものの癒し
発見されただけでも癒しは始まるのですが、根本解決のためにはしっかり癒す必要があります。
発見するだけでなく、救済までします。恐がっていれば守る必要などがあります。悲しんでいれば喪失を完了する必要などがあるかもしれません。
とにかく、見えない(発見されていない)ものは癒せないです。そこを奥深くまで探しにゆくのが深層心理セラピー。深層ということは、それは感覚的なものです。それは体験的な感覚やイメージなので、お勉強では学べないものです。
クライアント視点からすると、その発見した心的イメージをできるだけ受け止められるセラピストが必要ということになります。
救済方法は多くの場合、修正ではなくて、解放です。
たとえば、恐怖が発見された場合、その恐怖を感じながら完了させるわけですが、体験的な知識がないセラピストだと、暴露法やショック療法と勘違いしてしまいます。セラピーの解放や完了は、恐怖対象に慣らしているわけでもなく、ショックによって認知を変化させているわけでもないのです。
カマキリ恐怖症はカマキリに慣れる(暴露)ことで解決する可能性があますが、親に殴られた恐怖は慣れることで解決するわけではないです。前者は本来恐くないものが恐いという問題ですが、後者は本来恐いものが解ってもらえないことが問題なのです。
隠されしものを見たことがない人たちは、「親に殴られる恐怖」は殴られる恐怖(痛いなど)だと思っていますが、実は見捨てられる恐怖が入り混じっていたりします。しかし、それらを事例データに追加してダメです。体験すれば、体験はデータ/心理学の知識ではないことがわかります。
「深層心理セラピーには再トラウマのリスクがあるので本人の意思確認が大事」と言われますが、その実態は、ちょっと違うと思います。体験的な知識がないセラピストは、再トラウマ(または何も起きない)の可能性が高く、その特徴として本人が望んでいるか関係なくセラピーをやりたがるとうことが実態ではないかと思います。
実際に心理職研修などでは、事例に対して研修生たちが「この場合は〇〇セラピーをすることを検討する」なんて意見を挙げます。本人の意向よりもメソッドが先走るわけです。
隠されしものが隠されているのは、触れられたくないからです。誰に触れられたくないかというと、それがなにかを知らない人たちにです。
クライアントは、セラピーをしたがっているのは自分なのか、治療者なのか、注意する必要あがります。
深層心理セラピーが昨今は流行らないというのは、理にかなっているように思います。