心理セラピーでは非常識なことを話したりします。
ですから、古来では神殿とか教会とか山の寺とか、世俗から離れたところで精神に関わる儀式は行われてきたのでしょう。
また、とくに感情を扱う儀式には、「よい意味で諦める」というものがあります。
諦めの境地をみるために非常識が必要
心理セラピーでも「よい意味で諦める」ということが度々起こります。
「べつにいいじゃん」とか「欲望のままに生きてみませんか」とか「逃げていいよ」とか「ダメ人間かんぱーい」とか、社会規範に反することをいろいろ言います。ここには書けないようなこと、SNSで書いたらぜったい叩かれるようなこともね。
もちろん、下品なことを言えばよいというものではありません。ただ、大事なポイントはたいてい「言ってはいけない」を超えたところに隠されているのです。
諦められないということを扱う
それはクライアントが扱いたいテーマが、喪失(死別や変化)であるとか、過去に起きてしまった出来事とかいう場合には、もちろん結果的に「よい意味で諦めた」というようなことは起きるでしょう。
ですが、諦めるためのセラピーとはあまり言いません。
むしろその場合は、諦められないというあるがままを扱うことになるでしょう。
諦めようとすることを諦めるとでもいいますか。
なにかが出来ないのは、なにかを諦めてないから
また、逆のように思える「出来るはずの〇〇が出来ない」というような悩みでも、「よい意味で諦める」が心理セラピーのプロセスに表れることがあります。
つまり、何かをちゃんと諦めていないから、何かが出来なくなってしまっているのです。
また、多くのパターン化された感情反応も、何かをちゃんと諦めていないからかもしれません。
あなたの悩みは、もしからしたら、何かを諦めていないということかもしれません。
諦めようとしても上手くいかない
ですが、解決のために「諦めましょう」というのは乱暴です。
人の心の苦しみや病を疾患とみなす「治す」スタンスですと、「諦めていない」ことが原因なら「諦める」が解決だということになります。
ですが、心理セラピーではそのような「治す」スタンスはとりません。
諦められない何かを大切に想い、救済するというアプローチをとります。
「愛されることを諦めていない」のであれば、「愛される」こと大切にします。
愛されるという体験を大切にすることで、あのとき愛されなかったということを諦めるようになります。それは、ある意味では諦めたのではありません。諦めたというよりも、許したという感じに近いでしょう。
愛されたことで、許したくなった。許したら、諦めることが苦しみではなくなった。
そんなとき、クライアントは「諦めました」とは言いません。
諦めきれないとき「諦めました」と言うことはありますが、ほんとうに諦めたときは「諦めました」とは言いません。
ただ、”「諦められない」が終わる”のです。
ドアが開くのですから、ドアを開ける必要はありません。
諦めたのではなく、「諦められない」が終わったとき、「〇〇が出来ない」などの精神的な病が解消してゆきます。
結論
つまり、ヒントはこうです。
悩みの背景に「諦めていない」があれば、それに気づくことは助けになるかもしれません。
しかし、それを諦めようと急いではいけません。
諦めていないからセラピーのプロセスが進むのです。
諦めていないあなたを解放し、何を諦めていないのかを知りましょう。
何を求めているかを自分から聞き出しましょう。
諦めなくても、「諦められない」が終わります。
そのとき、なかなか出来なかった次の一歩が出来るようになっているでしょう。