誰からも理解してもらえないということ

心理セラピーのクライアントの多くが言うキーワードに「誰からも理解してもらえなかった」というのがあります。理解されない、誤解される、というのは人の生きづらさの根底にあるものだと思います。

理解されないことの恐怖

理解されないということは恐怖でもあると思います。それを極端に描いてみましょう。

たとえば、自分がギックリ腰だったとして、世間がギックリ腰とは何かを知らなかったとします。いつ世間から「早く立ち上がれよ」と言われるかもしれないという緊張感の中で生きることになります。それを言われたときは、無理して立ち上がり苦痛と悪化を受け容れるか、それとも反発して自分の評判を下げるかを瞬時に選ばなければなりません。また、世間様が「あいつを立ち直らせるために、立ち上がらざるを得ない状況に追い込んでやったほうがいいんじゃないか」と相談していることもあります。

理解されないということは、恐ろしい世界を生きることだと思います。

理解されないこと=悪者にされること

理解されないことは悪者にされることが多いです。普通でないことは人々の予測を裏切り、人々に不安を与えます。その結果、理解されにくい人は悪者にされることを多く体験するでしょう。

様々な説明が可能ですが、自分のためにも人のためにも「基本的帰属エラー」という現象を知っておくとよいと思います。それは「他者に関して何か問題があったら、それはその人に原因があるのだろう」と推測する認知バイアスのことです。自分が試験に落ちたときは問題が難しすぎたと思い、他者が試験に落ちたときはそれがその人の実力だろうと思うということ。自分が虐められたときは虐めた人たちが悪いと思い、他者が虐められたときはその人自身に虐められる原因があるのだろうと思う。それが基本的帰属エラーです。

人と同じことが出来ない、人と異なる反応をしてしまう人たちは、これによって悪者にされてゆく傾向があります。面白い人になるなどの対抗戦略は、つまり人々の恐怖心を和らげていると考えられるでしょう。不幸なパターンは、人々の恐怖心を和らげるために弱い人間になるという対抗戦略です。地位、能力、経済など自分の可能性を犠牲にすることに繋がります。圧倒的に強い人間になろうとするパターンもありますが、その奥には、責める側と響きあう恐怖が自分の中にもありますから、自身も人を責めるたり嘲たりする人になりやすかったりします。

「理解されない」と闘う人たち

理解されないとうこと、それを抱えながら、生き抜いてきた人たちは、社会を争いから守るために何かを背負ってきた人たちのようにも見えます。世間から責められることに、傷つきながらも、必要以上に反撃したり、必要以上に折れたりせず。起きたことから目を逸らすことなく、不用意な反応もしないというのは、アクセプタンスと呼ばれる実践の一種だと思います。

そんな人たちに「理解される」という体験をしてもらうと、それだけで大きな力が発掘されることがあります。封印されていた力、培われたアクセプタンスの力は人一倍で、そのような人たちのおかげで世界はバランスを保ってきたのかもしれません。

「解ってもらえない」からの解放

解ってもらえる体験は解放になると思います。しかし、解ってもらえないという体験はあり続けるかもしれません。そうなっても出来ることは、解る人になることかもしれません。「解ってもらえないことってあるよね」とわかっている人。

人は自分の痛みを通して世界を観ています。「あなたに傷つけられました」と言えば、相手は「あー、傷つけたんだなん」とは思いません。「あの人は私を傷つけるために『傷つけられた』と言ってきた」と思います。話の内容ではなく、自分の痛みを軸にして話の意味を作り上げます。「解ってもらえない」人生を生き延びた人は、そのような関係を数多く体験し、そのパターンから少し間をおくことを知っているようです。解ってくれない人たちを責める前に一呼吸おこう、というように。

そして「解ってもらえない」ということを言う機会も少くなってゆくかもしれません。そして、自分を大切にするとき、「解ってもらえなかったなあ」とカウンセリングや心理セラピーの中で思い出すのだろうと思います。

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