「科学的な心理療法」を選ぶときの注意点

自然科学を専攻した私からすると、臨床心理分野でやたらと「科学的」がアピールされるのには違和感があります。

理学部で「この理論/方法は科学的です」という言葉はそれほど聞かれませんでした。

「科学的です」は魔法の言葉

今日、「科学的です」と言われると、人はそれだけが正解だと思い込み、他の可能性を考えなくなります。

思考停止を導く魔法の言葉が「科学的」です。ですから「効果が科学的に実証されています」というような表現は販促にはよく活用されます。

売り込む側としてはそれはそれでよいのですが、自分のための心理療法を探す側としては、次のことは知っておいてよいかと思います。

「科学的に正しい」と「科学的だから正しい」を区別する

心理学の世界では「科学的に正しい」と「科学的だから正しい」が区別されていないようです。

前者は科学ですが、後者は思想です。

この区別ができることは科学者の基本なのだと思います。「科学的だから正しい」を主張するかぎり、心理学は科学になれないでしょう。

「同性愛禁止は〇〇教的に正しい」と「同性愛禁止は〇〇教的だから正しい」の違いなら信者以外には分かりやすいかもしれません。

有名な不完全性定理にならって言いますと、「科学は正しい」ということを科学的に証明することはできない、となります。

「科学的なものは正しい」と信じるのは思想の自由ですが、人に強制するのはへんです。その理由が「科学的だから」だとますますへんです。「科学的なものは正しい。なぜなら科学的だから」。

臨床心理の「科学的」

臨床心理での「科学的」は統計的に顕著な差が認められるというような意味で使われます。

※実は販促以外で専門家が「科学的」と言うことはあまりなくて、「研究によって支持された」と言うのですが。

たとえば、「女性は男性よりも(平均的に)背が低い」ということが(科学的に)証明されます。しかし、それに基づいて物事を判断することが正解かどうかは(科学的には)判りません。

科学的な方法を選ぶというのは、ひとつの選択肢(選び方)であって、意思決定の正解を保証することは科学ではない(科学者の仕事ではない)です。

その意思決定を正解とみなすのは、科学主義(科学教)という別のものです。それは思想家であって科学者ではないと思います。

このことは研究者にとっては深刻ではないかもしれませんが、心理療法を選ぶユーザーにとっては重要になることがあります。

「科学的」という言葉を使うと科学でなくなる

実験室の中の出来事に科学というお墨付きをあたえると、実験室の外でも成り立つと信じられます。

その科学的証明とは、たとえばこんな実験のことです。

「ポジティブな姿勢や言葉を実行した場合と、ネガティブな姿勢と言葉を実行した場合を比べて、そのあとの課題の成績が前者の方がよかったという実験結果が得られた」

確かにそうでしょう。商談の前に胸をはって「よーし、うまくいくぞお」って声に出した方が、商談の前に背中を丸めて「どうせだめです」と呟いた場合よりも、商談の成功率は上がるでしょう。それは参考になります。

そこで、「ポジティブな姿勢や言葉を使うと上手くいくことが科学的に証明されました」などと言われることになります。

ポジティブな姿勢や言葉を強いる自己啓発セミナーというのが流行りました。そこで上手くいかず、どんどん自信を失ってゆく人たちもたくさんいました。

この減少を踏まえて研究し直すと、別の(科学的な)結果が出るでしょう。

つまり、科学的という言葉をつかって一般化しすぎることで、科学的でなくしてしまっているのです。

「実験によって証明したから科学的だ」

「科学的なことは、いつでもどこでも常に正しい」

「どんな人にも、どんなケースにも当てはめてよい」

となってしまうのです。

物理や化学の法則はわりとうまくいくのですが、心理はそうでもないです。

だから心理学は物理学や化学に劣ると言っているのではありません。だからこそ心理学者の仕事は深淵だと言っているのです。

心理領域でもつい最近まで専門家は正しいことを一つ見つけると、他は正しくないと考える性質がありました。

効果研究も「上手くいくことがある」と理解しているかぎりは、とても有益な知識となるのですが、「常に上手くいく」「それだけが上手くいく」「そうでなければならない」「効果検証されていない方法を撲滅しろ」と一般化をすることで人を不幸にしています。

科学は人の助けになりますが、「科学的だから正しい」(科学主義)は人を騙す(丁寧に言うなら、思考停止を促す)ことになります。

科学主義者はインチキ心理療法を減らしたいお気持ちがあるのかもしれませんが、科学や権威を武器に頼るとだんだんインチキ心理療法と似てきます。

テクノロジーは正しくなくても機能する

そもそも「上手くいく」を探求するのは「テクノロジー」なのですが、それを「科学」と呼ぶところにも混乱がありそうです。

テイラーの「科学的管理法」も科学ではなくてテクノロジーです。

「テクノロジー」だと思っていれば、正しい/正しくないという評価はしません。使えるところに使うだけです。

たとえば、多動症の子供の足をイスに縛りつけるとあたりまえですが授業中に歩き回らなくなります。「多動症に効果があることが科学的に証明されました!」 となりますね。

証明されたのは「歩き回らなくなる」ということだけです。正しさは証明されません。

正ししさと科学も微妙に別のことです。

本当の科学者は「科学的」をアピールしない

対立するものを「科学的ではない」として否定するために「科学的」とアピールされる場合は、販促だなと思うのがよいと思います。販促自体が悪ではありませんが。

科学はインチキとして否定するための手段ではありません。

非科学を否定するために「科学」という言葉を使うのは科学ではなくて、思想や政治だと思います。

本物の科学者は「こんな研究結果があります」とは言いますが、「科学的に証明されました」とはあまり言いません。「科学的に証明されました」という言葉を使う人は、何かを売ろうとしているか、何かを怨んでいるか、ということもあります。

上述のセミナーの例で、元となる研究を正しく理解したならば、ポジティブな姿勢や言葉で上手くいかない人たちへの理解も深まるでしょう。ポジティブな姿勢や言葉は上手くいかせる作用があるのに、なぜその人たちはうまくいかないのか、そこにこそ大事な鍵がみえてくるからです。

もしかしたら、ポジティブな言葉や姿勢で上手くやる人たちこそが病んでいて、セミナーで上手くやれなかった人たちが健全であることが浮き彫りになったりするかもしれませんね。「科学的だから正しい」では、臨機応変な対応ができません。

参考

  • 『臨床の知とは何か』中村雄二郎

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

※当サイトの事例等は事実に基づいてはいますが複数のケースや情報を参考に一般化して再構成、フィクション化した説明目的の仮想事例です。

\(^o^)/

- protected -