大人の愛着障害のための心理セラピーにどのようなものがあるか、私見として書いてみたいと思います。まず、標準ガイドラインが推奨する療法みたいなものは見当たらないようです。症状で定義されるような「病気の治療」っぽくない性質のものだからだろうと思います。
「○○先生のメソッド」「克服法をうたった書籍」などはありますが。それらの固有名詞を挙げるよりは、想定されている枠組みによってまとめてみようと思います。私の知る範囲で以下にいくつかのアプローチを挙げてみます。
愛着サイクルを中心とするアプローチ
幼児は養育者に守られて安心したり、養育者から離れて冒険したりを繰り返します。このサイクルは「安全基地と探索」とか、「愛着の輪」「安心感の輪」などと呼ばれます。Kojunは「隠れ家と冒険」と表現していました。旧くはビオンも似たようなことを書いています。
そのようにして他者が担ってくれた安全基地を内在化してゆくことで、愛着が安定してゆきます。
それをやり直そうというのがこのアプローチです。つまり、カウンセラー/セラピストが安全基地となるアプローチ。これはセラピストが幼児期の愛着人物(幼児にとっての母親)の役割をするというものです。といっても、実際には養育者ではありませんし、クライアントも大人です。ですので、まるっきり母親を演じるわけではありません。養育はしないけど、安全基地を担うということです。
クライアントは日常やセッション等における傷つきを語り、それに対してセラピストが受容的態度(否定や説教より共感や理解を優先)することで、クライアントは安心して自分の感情に触れることが出来ます。これが安全基地となります。
このようにして、安全基地と日常(傷つきのある現実)の間の往復を繰り返します。まあ、手法というよりは、普通の共感的なカウンセリングと同じような感じです。旧い年配のカウンセラーにはこれが得な人がいました。「この人と話していると安心だなあ」みたいな感じです。そして、幼児が親離れしてゆくように、だんだんとカウンセラーと話さなくても安心を自分で作り出せるようになってゆくのです。
「それって、フツーの傾聴カウンセリングじゃないか」と思われるかもしれません。はい、私もそう思います。実際にそのフツーのカウンセリングの中で愛着が安定してゆくことは起きていると思います。カウンセリングどころか、ワークショップに通って来られるなかで愛着が安定する人もいます。
ただ、その愛着人物の役割は、傾聴の練習をしたような表面的技法では、どうしてもボロが出ます。セラピストの生き様が出ます。クライアントの前では「あなたはあなたでよいのですよ」と言っても、どこかで本性がバレるのです。口は悪いけど人情深い素人の方がよかったりすることもあります。
このアプローチの限界は、そのようなカウンセラーを見つけるのが難しくなってきているということです。人柄によるカウンセリングですから、昨今の専門知識や学歴が重視される心理業界で、そのような人生経験を積んだカウンセラーは減ってきているように感じます。
任意の手法+愛着サイクル
なんらかの手法を表面におき、実は前述の愛着サイクルが起きているというスタイルもあります。
愛着障害のための手法とされるものの多くが、実はこれなのではないかと思います。「認知の修正」(考え方を変えてゆく)みたいな愛着カウンセリングがありますが、心理師がやるよりも受容力のある素人がやったほうが効果があったというような話もあります。実は「認知の修正」は表向きのお題でしかなく、実際には愛着サイクルが効果を出しているのかもしれません。
表向きのワークは、なにかのお稽古事(たとえば生け花)でも良いかもしれません。上述のKojunのワークショップもそうだったのかもしれません。
触覚を重視するアプローチ
もともと「愛着」ということばは類人猿の「愛着行動」の研究から来ています。赤ちゃんが母親にしがみつくみたいなことですね。愛着サイクルの安心基地、冒険や探索に出るまえの段階を重視して、ハグやクッション抱きを取り入れたセラピーです。
このアプローチの難しいところは、心理カウンセリングの多くの流儀で身体接触(タッチケア)が禁止されていることです。それを補うかのように、ちょっとあやしいかもしれない自己啓発セミナーなどでは参加者同士でハグさせるワークがあり、そのような場で癒しのきっかけを掴む人もいます。
この点については、予めクライアントに意図や目指すところを説明したり、同意を得ておくなどの工夫が考えられます。また、ご自身でセルフハグをしたり、クッションを抱きしめるなどの方法も考えられます。
もう一つの注意点としては、この触覚のアプローチは、感情処理という過程を経てからでないと効果が出にくいらしいということです。専門書でもそのような手順を見かけますし、私の実感でもそうです。感情処理が上手くいっていないクライアントに触感型のワークを提供しても成功しません。
メンタライジングを中心とするアプローチ
「メンタライジング」というのは自分の気持ちを認識したり、他者の気持ちを推測することです。ここでは特に自分自身の気持ちが分かることを指します。
たとえば、同僚に対してイライラした場合に、「自分は分かってもらえないことを悲しんでいるんだな」と分かるみたいなことです。メンタライジングができないと、同僚の何が悪いかについて考えたり、恨むばかりで、自分の心のメンテナンスができません。
精神分析の流れをくむ文献では、安全な場でメンタライジングを促すことが、大人の愛着障害のための心理療法(カウンセリング/セラピー)であるかのような印象を与える専門書があります。ですが、それらは「愛着障害のために開発された手法」というよりは「愛着理論でアップグレードした精神分析」だろうと思います。
そのようなメンタライジングの促しは、境界性パーソナリティ症のためのセラピー手法にはなると思います。メンタライジングを高めることで境界性パーソナリティ症傾向の人たちが克服してゆくからです。
それらの専門書では、愛着障害と境界性パーソナリティ症をひとくくりに扱っているように見受けられます。たしかにそれらは並存しやすいですし、「並存が多い=同じ一つの病」とする考えもあります。ですが、私はその2つは区別したほうがよいと思います。
メンタライジングができるようになることで境界性パーソナリティ症(らしき人)が回復するのは見たことがありますが、愛着障害の克服はちょっと違う面が強いです。メンタライジング不全は愛着障害の結果であって、メンタライジングが出来ないから愛着障害になっているわけではないから、と言えばよいいでしょうか。
愛着不安定の方々は、自分の感情を味わうときに守られる、安心を感じることを体験することで克服してゆきます。ですから、安全基地の中で自分の感情を扱うことはあっても、それはメンタライジング訓練ではなく、安心を感じる訓練です。
ですが、上記の「触覚重視のアプローチの前段としての感情処理」のためにメンタライジング訓練すること、「愛着サイクルの表向きのワーク」としてのメンタライジング訓練というのは、適しているように思います。
ですので、メンタライジング訓練で愛着障害が回復するとは思えないのですが、愛着の心理セラピーにメンタライジングが取り入れられたとしても不思議ではない、というややこしい結論になります。
エビデンスのある/名の知られた心理療法
大人の愛着障害について、エビデンスによって強く推奨される方法みたいなものは見当たりません。
しかし、最近の多くの当事者が、トラウマ(とくにPTSD)への効果エビデンスがある心理療法に関心を示しています。そこでいうトラウマは愛着障害とは本質が異なるのですが、「エビデンスのある」という言葉の魔力、「○○メソッド」と名前がついていると効きそうに感じる錯覚によって人気があります。
また、愛着障害などの克服は主観的な体験を大切にする、いわば「旅」のようなものですが、主体的な旅を避けたいゆえに、メソッドの効果に治してもらうというスタイルに惹かれるのかもしれません。
それは愛着不安定の人が、お酒やギャンブルや表面的に優しい人、アヤシイ教祖様を求め、自律を願う愛着人物との接触を避けているのと似ている印象があります。そうであれば、内容を知らない、名前しか知らないメソッドほど魅力的に感じます。そして、体験が始まると、「これはなんだか違う」と言い出します。
ただ、上記の「愛着サイクルのための表面的な手法」として機能する可能性はあります。あるいは、心理セラピーのようなものに慣れるための練習として役立つ可能性はあるので、「やってみたいなら、やってみるのもよい」というのが私のスタンスです。あんまりお勧めはしないですけど。
また、愛着障害と併存または近い、複雑性トラウマは多くのPTSD療法の適用対象でもあったりするので、ややこしくなりつつあります。
愛着をターゲットに心理セラピーをやりたいなら、安心サイクルか安心感覚訓練(感情を扱う+触覚重視)をお勧めします。
参考
- 『乳幼児の精神衛生』J.ボウルビィ
- 『母子関係の理論』J.ボウルビィ
- 『子供の「脳」は肌にある 』山口創
- 『大人の愛着障害』村上伸治
- 『大人の愛着障害』高橋和巳
- 『愛着障害』岡田尊司
- 「乳幼児の心の発達とアタッチメント「安心感の輪」と「一人でいられる力」の大切さ(3)」遠藤 利彦(母子健康協会第43回シンポジウム)
- 『愛着関係の発達の理論と支援』米澤好史編
