手法中心アプローチと人間中心アプローチ

人間性中心アプローチは、パーソンセンタードアプローチとも言われます。私は本人中心アプローチと言ったりもします。

その説明文を読んでも、漠然としているので、具体的な例を挙げて説明してみます。

手法を愛するセラピスト

こんなことを言う治療者(カウンセラー、セラピスト)がいます。

「CBT(認知行動療法)でよくなった人をたくさん見た。だから多くの人々にCBTを届けたい」

「精神力動療法でよくなった人をたくさん見た。だから多くの人々に精神力動療法を届けたい」

※CBTは行動主義アプローチ。ここでは人間性アプローチと対比的に用いますが、現代では必ずしも相いれないわけではないと思います。

これらは、人間中心アプローチならぬ、手法中心アプローチとでもいうものです。

具体例1 Aさん

周囲の人から「頑張れ」とか「もう忘れなよ」とか「明るくなれ」と言われて、苦しみが爆発してしまうAさん。

ざっくりですが、狭義のCBT(認知再構成)の流れを書いてみます。

Aさん「苦しみが爆発した」

どんな状況で?
Aさん「人からガンバレと言われて」

どんな自動思考があるのか?
Aさん「責められている感じがする」

ほんとうに責められている?
Aさん「自分がそう思っているだけ」

→Aさんの苦しい気分が少し改善

それはそう。

でも、そんなAさんはそんなことは知っている。

Aさんは違和感を感じています。はっきりと意識しないし、言いもしませんが、Aさんにとっては、これをやらされること自体が暴力のように感じていたりします。

かつてCBTでは、非現実的な自動思考や出来事の捉え方を「認知の歪み」と呼んだりしていました。

現在ではそんな言葉は使わないだろう思いますが、直すべきものといったニュアンスは残っていると思います。

もちろんカウンセリング技術を学んだ治療者は「直すべきだ」とは言いませんが、その手法がそれを直すことを期待していることはわかります。

Aさんはなぜ、この治療プロセスを暴力のように感じるのでしょうか。

Aさんは、せっかく長い時間をかけて、少しずつ心を安定させてきた。

頑張ってきたのに「頑張れ」と言われる。忘れられない事と少し距離をとれるようになってきたのに「忘れなよ」と言われる。これでも以前よりずいぶんと明るくもなってきた、それなのに「明るくなりなよ」と言われる。

これまで少しずつ積み上げてきた癒しのプロセスが否定されてしまい、それに拒絶反応が起きていします。それがAさんの生活の中で起きている苦しみの爆発です。

よくなりたい、克服したい、諦めていない、だからこそ、その苦しみ爆発は当然のものです。

その気持ちを大切にするのではなくて、間違いだから考えを改めることを促されているようです。

それでも、素直なAさんは「そうだよね。自動思考を改めないとね」と頑張る。

「人は私を責めてない」という現実を意識して自動思考を少しずつ修正してゆく。「怒りが少し治まりました」となる。

…治療者の望み通りに。

実はこれはAさんがこれまでやってきた苦しみの人生そのものです。

「これまでの心理療法は効果はあったと思うのですが、幸せにはなりません」というクライアントはよくいます。

それはずっとAさんを苦しめてきた、誰かから正しさを押しけられる世界とよく似ています。

「頑張れよ」
「やめなよ」
「自動思考を手放せよ」

Aさんは、実は苦しみや怒りが爆発することを止めたいのではありません。いや、止めたいのですけど、そこでなにかを置き去りにしたら本末転倒なのです。

治すことが目的の治療者と、この牢獄から逃れたいAさんでは、目的が一致していない。

手法中心アプローチと人間中心アプローチ

これはCBTが悪いという話ではなくて、CBTが合わない人もいるってことです。

私もかつてお世話になりましたが、CBTはなかなかよいです。多くの人にとって。

でも、「他に人に効いたから、あなたも頑張ってCBTやりましょう」というのは問題だと思います。

それは手法中心アプローチでしょう。

人間中心アプローチは、手法中心アプローチとの対比で理解できると思います。

Aさんは頑張ります。

「たしかに、このままでは治らない」

「たしかに、この反応で迷惑をかけてきた。治さなきゃ」

支援者が「自分を責めなくていいですよ。悪いのはあなたではなくて、病気のせいです」などと言ったところで、Aさんはそんなことはとっくに分かっています。

ですが、手法中心の治療者には本人の気持ちなんてわからない。

なにかを分からないといけないのは、Aさんではなくて、治療者の方なのです。

Aさんの望み

Aさんのような場合、深く受け入れられるなどの体験ができれば、認知は自然と修正されます。認知の修正なんて、ずっとしてきたことだから。

それを踏まえて「CBTの効果をあげるために、寄り添うことが必要」という考えもありますが、それも手法中心アプローチでしょう。手法が目的で、寄り添うことが手段すから。

人間性アプローチには標準化された手順だとか、わかりやすい手法というものがあまりありません。それは、人間性アプローチの本質と関係あるように思います。

ここで述べているのは、CBTと人間中心アプローチと、どちらが効果があるかという話ではありません。

Aさんの苦悩を理解しない支援者は、「難しく考えすぎですね。もっとシンプルに考えましょう」と言ったりします。Aさんのことを「ややこしいクライアント」「めんどくさいクライアント」と口を滑らせる支援者もいます。正直でよいと思いますが。

私はAさんの上述のようは例を、ややこしいとは思いません。似た体験をもたない人に理解してもらおうとすると、ややこしくなるだけです。

そこにある苦しみは、いたってシンプルです。

ひねくれてなんかいません。

このAさんに求めているものが、人間中心アプローチなのだと思います。うーん、伝わるかしら。

「それはわかりますが、でもCBTで良くなる人がたくさんいますから、CBTは大事です」と言われるのを何度か聞きましたが、それは手法中心アプローチだと思います。

手法中心アプローチになり得るのはCBTsに限らない

ちなみに、CBTに限らず、精神力動でもTA・ゲシュタルトでも、手法中心アプローチになり得ます。

Aさんの例では、爆発する苦しみを大切にして、それを上手に解放することでこの悩みが解けてゆく可能性がありますが、「感情を出させる」理由が「この手法で多くの人が救われたから」になっちゃうと、それは人ではなくて手法を見ているということです。

手法中心アプローチと人間中心アプローチ

感情解放セラピーの注意点

ただ、手法として確立するほど、手法中心アプローチになりがちです。

とはいえ、バランス感覚も必要でしょう。

「治す」タイプの治療者は、(中略)クライアントの本来的な生き方を歪ませようとしていないかを常に反省する必要がある。「治る」ことを強調する人は、(中略)治療者の責任や能力という点で厳しさに欠けるところがないかを反省すべきである。

河合隼雄『心理療法序説 』p.21

精神論がダメだからといって技術論に戻る必要はないし、技術論がダメだからといって精神論に戻る必要もない。ケアを成り立たせているのは精神と技術だけではない。そこには、たとえば「関係」というひとつの重要な要素がある。

野口雄二『物語としてのケア 』p. 203

人間中心アプローチと呼ばれても人間中心とは限らない

人間中心アプローチの権化である来談者中心療法なんかも手法中心になります。形骸化した来談者中心療法は、来談者中心療法を中心としているので、手法中心アプローチになります。

また、本人に寄り添って、本人主導でカウンセリングを進めるという技術が、援助者の望む成果を得るために使われる場合もあります。それは技術としての人間中心アプローチ(パーソンセンタード・テクニック)であって、価値観としての人間中心アプローチではありません。治療とか行政とかはそれ自体に目的を持っていますので、価値観としての人間中心アプローチを実践するのが難しそうに思います。

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

※当サイトの事例等は事実に基づいてはいますが複数のケースや情報を参考に一般化して再構成、フィクション化した説明目的の仮想事例です。

\(^o^)/

- protected -