「性被害」の心理セラピー

主に当方で行っている性被害トラウマに関する心理セラピーを説明します。

※ショック反応がある方は無理して読まないようにご注意ください。

性被害セラピーの対象

長期化する側面

性被害については、出来事からある程度年数が経過した心の傷を主に扱います。

「嫌いな人を拒むことが難しい」「好きな人に近づけない」「自分や世界に否定的」など、人生への影響、長期化しているお悩みを解決しようとします。

また、出来事に関して語ったりということがワークに含まれますので、ある程度の振り返る余裕が必要となります。(思い出すといっても、負荷をかけることを意図するものではありません)

※出来事直後の場合は、安全確保、法的な保護、身体に関する受診などを優先していただくことになります。また、広義PTSDのような反応はご自身を守るために必要なものという側面もありますので解き急ぐものではありません。

社会的/人間関係的な側面

広義PTSDを、「生物的な生理反応」と「社会的な反応パターン」で捉えるなら、上に挙げた悩みの例は後者の「社会的なもの」と言えるでしょう。これは地味なものですが、長く人生に影響している場合があります。

どんなことをするの?

理解を深める

多くの場合、ご自身の行動や反応は、自然な反応、必要な反応であったことを理解します。フリーズ、気持ちと逆の行動、本当の気持ちと逆の気持ち、などなどは正常な反応ということを知ることは第一歩となります。

トラウマ反応が自分を守ってきたことに感謝を覚えることさえあります。

また、ご自身にとっての大切なポイントを明らかにしてゆきます。苦しみの理由を明らかにすることは、よい目標を見つけることと重なります。そして、その大切なポイントによって、どのようなイメージワークをするのがよいかを検討します。

イメージワーク

未消化の恐怖を適切なペース消化します。また、具体的な動作や言葉によって、後述する境界線や自己肯定の修復を行います。必要に応じてプチ・ドラマセラピー(数秒間の演技体験)を少し取り入れます。

記憶に対する馴化、すなわち思い出すことに慣れるということを含みます。ただ思い出せというのではなく、境界線や自己肯定を使いながら安全に馴化し、馴化により境界性や自己肯定を可能にするというスパイラルを焦らずに育てます。

なにを目指しているのか?

人との繋がりとPTG

心の自由を求めて行う深層セラピーです。そこでは「男性に近づけない」というような症状というよりも、その人の中の心の問題を扱います。症状をなおすことよりも、「わたし大丈夫」の核を得るためのセラピーです。

その出来事よりも自分の方が大きくなり、それを超えた人生が始まるイメージです。

恐怖感情の完了

恐怖の感情について、身体が覚えている「こわい」を「こわかった」へと完了させてゆきます。これは「こわい」の意味を解きほぐしてゆく作業でもあります。味方が必要となる作業です。記憶への馴化(思い出すことに慣れてゆく)という側面もあります。

成果を焦らずご自身のペースで行いますので、自然に話せることを少し話すだけということもありますし、積極的な方はイメージワークをする場合もあります。

心理的な境界線の修復

怒ること、拒否する権利というようなものを心理的な境界線(バウンダリー)と言います。これが破壊されている場合には、これを取り戻すためのワークを行います。

これは加害者以外の登場人物と大きく関係している場合があります。

たとえば、「なにぃ! そんなひどいことをするのはどこのどいつだっ!」と立ち上がってくれるはずの男性(場の責任者、仲間や家族、教員)が「大袈裟にしないでおくれ」「きみの勘違いじゃないのかい」「自分から誘ったんでしょ」などと言って目を背けたことが二次外傷として強く刺さっていることがよくあります。ほんとによくあります。それは圧倒的な絶望のように心をつぶしています。それを見つけたならば、味方になる人(この場合は男性が効果的)がいるというイメージを体験する方法がトラウマ克服の糸口になることがあります。

実は心理セラピーに男性が立ち会うと効果的であることがあります。ちなみにKojunは痴漢を土下座させたことのあるダブルジェンダー(女性でも男性でもある)です。

上述の「認知を歪みではなくて、歪ませているもの」という観点でいうと、それは助けてもらえなかったたか、怒るはずの人が怒らなかったというのがそれです。そこを扱わずに認知の歪みを治すというのは、助けてくれなかった/怒ったくれなかった人たちになんだか似ています。

自己肯定の癒し

また、暴力を受けてしまった自分を許せないということが深く刺さっている人もいます。これは身を守るための防衛ともいえますが、それに気づいて自分を赦すというプロセスは下手な助言や共感が通用しない奥深いものです。これが心の傷の大切なところであったならば、セラピストがどれほど自分を赦しているか問われるものでもあり、他者が入ってはいけない心の部屋に他者が入ることで克服の糸口になることがあります。

置き去りにされた自分の救済

これらに共通するのは置き去りにされた自分に会いに行くというものです。

この深層セラピーはセラピストの生き様や相性が重要になります。たとえばKojunの場合は、性別両性なのでわりと女性被害者が相談しやすく、かつ上述の怒りのイメージワークで男性の役もできます。また世間から「あるまじき者」として白い目でみられた経験と、逆に大切にされた経験を併せ持つため、他者が入ってはいけない心の部屋に招かれやすいことがあります。また、セラピストが「克服した人たち」を何人か知っているというのも大切です(克服した知人がいない人の多くは「克服できるはずがない」と思い込んでいます)。

事件直後については、身体ケアや法的予防などのためにいくつかやることがあるので、支援団体への相談をお勧めします。参考:性暴力被害の直後の相談

どんな変化があるのか

これは例にすぎませんが、このようなことが起こります。

  • なぜか自分がコソコソしてる ⇒ こそこそしなくなる(むしろ加害者がコソコソしてる感じがする)
  • いい感じの異性が近づいてきても反射的に冷たくしてしまう ⇒ 反射的に拒まず楽しめる
  • 強引な異性が近づいてきたときに、とっさにNoと言えない ⇒ 素早く拒むことができる(または寄せつけない)

※加害者が異性の場合

参考:性トラウマの克服のビフォー/アフター

Kojunセラピーでやらないこと

基本的に「治す」「社会復帰を目指す」という観点ではないです。ご本人の望み次第ですが。

認知修正を中心としていない

たとえば男性恐怖症になった場合、認知修正アプローチでは「男性はすべて危険だ」という認知の歪み(自動反応的)を「すべての男性が危険なわけではない」と修正してゆくといったイメージになります。もちろん、それがクライアントの望みであれば、それもあり得ます。

しかし、「すべての男性が危険なわけではない」というように認知を修正するなんて言われると、「そんなことはわかっとるわい!」と思いませんか? 当事者視点で言えば、 認知の歪みを治してほしいのではなくて、歪ませてるものをなんとかして欲しいと思います。そこもちゃんと扱うわけです。

Kojunセラピーでも「男性はすべて危険だ」のような認知・信念は修正されてゆくのですが、合理的思考をぶつけてゆくというようりも、それにまつわる感情を適切に処理したり、いろんな側面を統合することで図地反転1が起きる感じです。

別の例を挙げるならば、たとえば「私は汚れている」という信念があった場合、一般的に治療者としては認知を修正することを目指すわけです。

しかしながら、Kojunはクライアントをもう少し信じてみようと思います。その信念の役割を大切にします。たとえば、「私の体は汚れた」という信念によってクライアントは「私の魂は汚れていない」ということを守っているかもしれないのです。「その体は私から否定されながらずっと私を守ってくれていた」ということを置き忘れないようにすることで、修正ではなく癒しが起きるということもあります。

※認知修正アプローチをベースとしながら、様々な要素を加えて奥深い癒しを提供しているセラピーもあり得ますので、認知療法を否定するものではありません。準備ができたら必要な認知修正もやればいいと思います。

暴露を中心としていない

曝露法もいろいろバリエーションあがるようですが、恐怖対象に近づいて恐怖反応を解消するというような方法です。男性恐怖症であれば、徐々に男性に近づいてゆくというようなイメージです。

症状をターゲットとするので、統計科学的検証がしやすいく、治療者には好まれます。

Kojunのクライアントは年月をかけて、日常生活のなかで同様の実践が完了している場合が多いです。

別の言い方をすると、そのようなクライアントは男性に近づけるようになった/なりそうだとしても、悩みの解決にならないから相談に来る場合もあるわけです。

そもそも暴露法が性被害のセラピーにしっくりこないと思う点があります。それは、一般的な暴露法が「本来恐くないはずのものが恐い」(潔癖症、カマキリ恐怖など)に対して行われるのに対して、性被害は「本来恐くないもの」ではないからです。「こわがってもよい」という方が真実に近く、本当の癒しに通じる道が見つかりやすいように感じています。

ただ、暴露法の一種であるPEと似ているところとしては、男性に慣らすというよりは記憶に対して慣らしてゆくということを行います。そのような意味での慣らしはKojunセラピーの中にもあります。

それは不安対象に近づく(暴露)練習ではなく、置き去りにされた自分に近づく練習となります。すなわち、自分へのゆるしが伴うということです。

一般的な心理療法でよく重視されるのは、不安対象に「暴露」(さらす)して「馴化させる」(ならす)という戦術です。

Kojunの心理セラピーは、暴露・馴化というよりは、消化という感じです。

不安感情の完了も重視します。恐怖を体験的に知っているセラピストでないと、馴化と完了の違いはわからないかもしれません。やり方も少し違います。慣れるというよりは、恐かったということを許すという感じです。

場合によっては、不安の原因イメージを取り除く脱感作も行います。これはトラウマというよりは恐怖症が混ざっているような場合です。

つまり「慣れたから楽になった」という解決像を目指しているわけではないクライアントのためのセラピーということになります。

参考:「恐怖症」の心理セラピー

Kojunが感じる難しさ

性暴力被害のセラピーの難しさは相談者がそのテーマ(セラピーの目的)をなかなか明示されないことです。言いにくいんです。

別件をテーマとした相談でセラピストとの相性を様子見るというのは良いやりかただと思います。そこで、暗にほのめかしたり、余談としてそのエピソードを話されたりするときに、トラウマ反応が出ることがあります。これは、心の奥で「このセラピストを信用してもよいのではないか」と思ったときに起こります。

ですが、セラピストは「頼まれていないセラピーを本人の意思に反して施してはならない」という契約の原則があります。つまり、本人が望んでいないセラピーはしないわけです。暗にセラピーを望んでいたとしても、セラピストに何かしてもらうことに心の準備ができていない場合もあります。ですので「性暴力被害の心の傷を癒すセラピーをしてみます」と本人の意思を確認できていない、しかし暗黙に意思表示されている(言いにくいからほのめかしている)という状態では、その反応を抑えるのか、セラピーガイドの機会とするのか判断が難しいのです。

セラピストではない支援者(福祉や教育の相談員など)の方には、そのような場合は現実の視覚や触覚を使って反応を抑えることをお勧めしています。ですが、セラピストを訪れてきている場合は相談者の真の目的がそのテーマのセラピーである場合もあるので、そのままセラピーする場合もあります。

Kojunは自身がデリケートな方でもあり、ご本人の意思確認に慎重な方です。

しかし、実際に事件(性暴力の現場)に出くわしたとき、ご本人の意思確認ができなくても私は介入(助けに入ること)をしてきましたので、その心をセッションにも取り入れてゆきたいと思っています。

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

※当サイトの事例等は事実に基づいてはいますが複数のケースや情報を参考に一般化して再構成、フィクション化した説明目的の仮想事例です。

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