寄り添うカウンセラーがいるというよりは、寄り添う瞬間がある

カウンセリングや心理支援では「寄り添います」ということがよく言われます。

「寄り添ってください」とか「寄り添われました」という言葉はあまり聞かない。寄り添うというのは支援者側の言葉なのかもしれません。

でも、「寄り添います」って書いてあったら、ちょっと安心します。なんか期待しちゃいます。

なにを期待しているのでしょうか?

分かってくれるっていう感じかなあと思ったりします。味方になってくれる感じかもしれません。

ただ、優しい言葉などをかけられても、寄り添われた感じはしないこともあります。

「優しい言葉をかけます」とは違うように思います。

「そうなんですねえ。たいへんですねえ」などと言われても、けっきょくは他人事って感じがすることがあります。

「痒いのですねえ」と言われても、痒さはなくならないみたいな。

「あなたの立場にたって、あなたの視点で」というのは、寄り添うことかもしれません。

就労相談などでは顕著だと感じます。どんな仕事なのか、どんな職場なのかは就労相談している本人にとっては深刻なことです。しかし、支援者に関心があるのは「就労するか、しないか」です。ですから、本人が迷いながら「これいいかなあ」と言ったら、「いいと思いますよ」と必ず言ったりします。どんな案件でもそうなので、「あ、この人、就労さえしてくれれば何でもいいと思っているな」と気づいてしまいます。そりゃそうです。他人事ですから、ほんとになんでもいいのでしょう。

心理相談の場合は、それほど顕著に分かり易くありませんが、同じような他人事っぽさはあります。まあ、他人事ですからね。

「寄り添います」というなら、それを超えて自分事のように一緒に考えてくれるってことじゃないかなと期待します。もちろん、巻き込まれるというのは違います。

私もクライアントとして数十人のカウンセラーに会いました。寄り添うカウンセラーは、少しだけいました。

私のクライアントも言っていますが、多くは冷たいガラスの向こう側にいるカウンセラーでした。それが悪いわけではなく、それもプロフェッショナリズムだと思います。

口調だけ寄り添っているっぽいカウンセラーもいました。これも技術なので、実はけっこう効果あったりします。

でも、私が寄り添いや親身を感じたカウンセラーというのはそれらとは違います。

それは一瞬に表れます。寄り添うカウンセラーがいるというよりは、寄り添う瞬間があるということでしょうか。でも、それが寄り添うカウンセラーなのでしょう。

そして、もうひとつ思うのは、そのときクライアント側からも寄り添っているように思います。立場や役割は対象ではありませんが、寄り添いは協働作業のようにも思います。

クライアント側は、非現実的なことをカウンセラーに期待せず、現実的なことを期待するとき、寄り添いの足場ができるように思います。

多くの場合、私はクライアントに対して感謝の気持ちを持っています。ここへ来るまで生き延びてくれたことへの感謝です。

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