心理療法とエビデンス(2)「効果」よりも細かなこと

前の記事:心理療法とエビデンス(1)「多くの人に効果がある」と「私に効果がある」は異なる

の続きです。

「セラピストの個人的な経験則や直感ではなく科学的根拠にもとづいて心理セラピーは行われるべきです」という科学主義やエビデンシャリズムは思想であって、科学的に証明されてた事実ではありません。セラピストの個人的な経験則や直感に助けられた人はたくさんいます。それをやめるべきだというのは、それもまた個人的な経験則や直感ではないでしょうか。

結論をいっておきますと、科学主義・エビデンシャリズムの心理サービスもスタイルの1つとしてあってもよいいですが、それ以外の多様性を淘汰・撲滅することはよろしくないと思います。相談者側としては、うまく使い分けるとよいかと思います。

モチベーションに依存する手法は統計的に評価されにくい

たとえば、「飲めば痩せるサプリメント」は、100人の痩せたい人に飲んでもらって、何%の人が痩せたかを調べれば効果が評価できるでしょう。

では、食事制限や運動はどうでしょうか? 100人の人が挑戦しても続かな人が70%、やりきった人には90%の効果がある場合、その効果は90%でしょうか、それとも27%(=30% × 90%)でしょうか?

それは、多くの人にとっては上手くいかない方法ですが、一部のモチベーションの高い人(モデル業とか、持病が危ない人とか)にとっては90%の効果でしょう。

葛藤を伴う心理療法の場合は、プロセスの途中で心理的抵抗があります。多くのちょっと悩んでいる人にとっては効果が得にくい手法ですが、一部の本当に困っていてモチベーションが高い人(とても苦しい、このまま人生を終えたくない、大切な人をこれ以上傷つけたくない、などなど)にとっては、とても挑戦しがいのある手法なのかもしれません。

ちょっとハードル高い心理療法などは、エビデンス研究がとても難しくなるでしょう。となると、安易なエビデンシャリズムによる手法の淘汰は、行政統計上の成果はあがっても、本当に苦しんでいる人や大きな試練を背負っている人のための支援がなくなってゆくことになります。

たとえば、ワーカホリックで苦しんでいる人の場合、ちょっと苦しんでいる人(あるいは行動変容プロセスの前半の人)は「私は本当は劣等感をハードワークで隠そうとしているのだ」なんて絶対に認めたくないでしょう。しかし、我が子までもが苦しんでいると気づいた人(行動変容プロセスの後半の人)などは、「私は本当は劣等感をハードワークで隠そうとしているのだ」くらいのことにはガンガン向き合います。

感情力動アプローチのような心理セラピーも、苦しんでいる人ほど成果が出やすいと言います。

実際に、私のところで葛藤を扱った人の多くが悩みを解決していますが、自分の心に向き合いたくない多くの人はこのようなガチセラピーはやりたがらない、やったとしても諦める割合が高いです。

エビデンスはパワーゲーム – 「エビデンスがある」≒「誰かが儲かる」

統計検証というのは、なにかを証明しようという意図で研究されます。そこには意思があるのです。研究者の利益にならないものはエビデンス研究がされないです。

たとえば向薬物療法についてのエビデンス研究は製薬会社が積極的に実施するでしょう。商売として必要だからです。ですのでお薬のエビデンスレベルは高くなります。

(関連参考:『大丈夫か、新型ワクチン:見えてきたコロナワクチンの実態』岡田正彦 著

それに対して、「パン食をやめて玄米食にするとうつ病が治る」という食事療法は、製薬会社もパン屋もがエビデンス研究しないでしょう。そんなことが証明されても損になるからです。そのような療法は 組織的な研究がされず、「〇〇先生が言っている」という低いエビデンスレベルになりがちです。

また、「心理職の学歴や知識は心理支援の成果に関係がない」というような仮説を、学歴や知識を自己価値とする研究者たちが証明しようとすることもないでしょう。

たとえば、愛着不安定を解消するあるセラピーメソッドは、ステップAとステップBから構成されますが、ステップBだけで実験検証されていました。「効果がない」という結果が報道されていました。

もし、研究者がこのメソッドの有効性を証明したい肯定派だったら、引き続き研究をして「ステップAも大事らしい」と気づいて、ステップA+ステップBで実験検証をやりなおして「効果あり」を発表したでしょう。

しかし、研究者がセラピー否定派だったら、最初の「効果がない」という結果に満足して、それを発表するでしょう。

研究者が証明したいことしか証明されないのです。

「エビデンス」は公正を印象づけますが、そうでもなさそうです。エビデンスは利害や価値観が反映されたものです。

※本来のエビデンス・ベースト・アプローチでは、「エビデンスを批判的に評価しながら参照する」というステップが組み込まれています。

「エビデンスがある」というのは、「予算のある誰かが儲かる」という意味でもあります。

もともと心理の世界は他流はを貶しあうのが伝統でした。そこにはパワーゲームがあるのです。競合他者を否定するたに使われるエビデンスという言葉には注意が必要です。

あなたが治療者・支援者・研究者ではなくてユーザー(悩みの当事者)だとしたら、エビデンス研究は、販促合戦や派閥争いの目的で行われているという実態は知っておいたほうがよいでしょう。「エビデンスがあるか」もよいですが、「それは人を幸せにする目的で研究されているのか?」ということには敏感になることをお勧めします。

「エビデンスがない」は「効果がない」ではない

「効果がない」ということを証明するのは科学的ではない

一時期「精神分析はエビデンスがない(だからダメだ)」ということを言う専門家がいたようですが、その時点でエビデンスがなかったからといって「効果がない/効果がある人が少ない」と証明されたわけではありません。「〇〇療法はエビデンスがないことが研究で証明された」という不思議なコメントをしている専門家もいます。

ある手法が「効果がないと証明された」とテレビで報道されていたそうです。それは愛着不安定(愛着障害)のための方法なのですが、男性セラピストが母親役をしていたそうです。その手法はおそらく、母親が女性である必要があり、しかも子供を産んだことがあり、愛着安定している人を母親役にすれば効果は全く違うでしょう。実際にそのような手法で救われた人たちはたくさんいます。つまり配役を間違えているわけです。「効果がない」というのは「まだ工夫が足りない」「検証者が習熟していなかった」という可能性が残ります。

薬物療法に関しては「投与しても効果がなかった」という研究結果は意味があるでしょう。薬物療法はそもそも「量産」してマジョリティを救うという戦略だからです。薬物という物質は、実験段階でも完璧に再現され、配布段階で現場で進化することもないからです。(他の薬や療法との組み合わせで効果がでる可能性はあるかもしれませんが)

エビデンスは基本的には薬物療法を根拠づけるために用いられるものなんです。(中略)まして精神分析のように、患者個人との関係の一回性を重視する治療法だと、複数の事例を重ねて統計解析するなどナンセンス、という批判もあり得るでしょう。

斎藤環『現代思想2021年2月号 特集=精神医療の最前線』セルフケア時代の精神医療と臨床心理

「エビデンスがある」というのは「検証しやすい」という意味でもある

エビデンスがあるというのは、「検証しやすい」という意味でもあるかと思います。そして、検証しやすさは研究者にとっては価値がありますが、悩みを克服しようとする当事者にとってはどれほどの価値があるでしょうか?

「人」に依存するものは検証しにくい

また、ゲシュタルト療法、精神分析(精神力動)、ファミリーコンステレーションのように、「手順」よりも支援者の「在り方」や「場づくり」や「相性」に大きく依存するものもあります。それらは実験から客観データをとるエビデンス検証が難しでしょう。

たとえば、ドラマセラピー的な手法の一種では、イジメ被害トラウマの方のイメージワークで、セラピストが被害者を守るように「やめろ!」と叫ぶことでトラウマ解消が起きることがあります。実際に起きます。このような手法の場合、セラピストが実際の生活の中で自身の危険をかえりみず痴漢や暴力者を怒鳴りつけて追い払った経験がある人物である場合と、講習会で習った通りその台詞を読み上げるのとでは効果はかなり違います。

つまり「あり方」に大きく依存する手法を「エビデンスがない」という理由で撲滅してしまうと、「あり方」や「場をつくり」の優れたセラピストを撲滅してしまう危険があります。私の知る限りでも「あり方」や「場をつくり」に優れたセラピストが辞めていったケースはあります。これは学術界の教育者の商売にとっては都合がよいかもしれません。

また、ひきこもりの支援では、支援者が会うことすら拒絶されるため、元ひきこもりの人たちが支援者として活躍しています。そこには一定の技術や手法があるのですが、これは「誰がやるかが効果に大きく影響している」ことを示唆しますが、「専門知識」よりも「誰がやるか」によって効果が変わることの検証はあまり行われません。

このようにセラピストの実体験、生き様、人柄に成果が大きく依存するような手法や支援は、エビデンスを検証することが難しいです。

だとすると、エビデンス重視の手法というのは、「誰がやっても同じ成果がでる」ということといえるかもしれません。

たとえば、演劇指導を通して効果的に人の心に変容を起すセッショニストもいるかもしれません。というか、いるそうです。ですが、それできるの人は稀です。稀であれば、統計的エビデンスは出ません。行政は心理支援者の量産を目指しているので、行政が「誰がやっても同じ成果がでる」手法を重視するのはわかります。ですが、どの手法も最初は誰かの神業だったのではないでしょうか。悩みの当事者としては、「自分にあった」手法か人に出会えるまで、いろいろ探せる多様性がほしいです。

自分が必要としているのは、技法(手法)か、人か、ということも支援者探しのヒントになりそうです。

参考程度ですが、Lambert MJが分析した心理療法の成功要因の比率によると、治療関係要因(セラピストとの信頼関係など)は30%、技法要因は15%となっています。

「手順」は評価されやすく、「考え方」は評価されにくい

また、手法には、「手順」ではなく「考え方」を示すものもあります。たとえば交流分析(TA)なんていうのは理論なので効果測定ができません。その視点をもって対話することで成果を出しているカウンセラーもいますが、それはエビデンスのある方法とは認められません。しかし、それによって救われた人たちはたくさんいます。

また、筋肉の弛緩や眼球運動など身体にアクセスする手法は「手順」中心なのでエビデンス検証がしやすく、それに対して心にアクセスする手法は「関係性」中心なのでエビデンス検証がしにくい傾向があると思います。

なお、繰り返しますが、本来の「エビデンスベースト・アプローチ」はエビデンスのみで善し悪しを判断する意味ではないそうです。

エビデンシャリズムではそもそも仮説が生まれない

療法やメソッドは経験や勘に基づいて改良されて洗練されてゆきます。アメーバのように臨機応変に進化し続けるような手法(アプローチ)もあるのです。

現時点でエビデンスがないとされている、「ときどき効果があるんだよね」とか「私は人はうまくいきました」(事例→エビデンスレベル5)とかセラピストの経験と勘(専門家の意見→エビデンスレベル6)のような手法が、試行錯誤されて将来的にエビデンスレベルの高いものになる可能性はあります。

というより、効果のある手法のほとんどすべてがそのようにして開発されてきたわけです。

研究の分野でも、質的研究(事例研究など)で仮説をつくって、量的研究(実験法などの統計)で検証するといういのを実践的と呼んでいるようです。

ですから、エビデンシャリズムの「エビデンスの有無よって効果のない手法が淘汰されるメリット」というのは危険な考え方だと思います。質的研究の対象となる経験や勘の実践がなくなると検証対象もなくなってしまいます。

おそらく、エビデンシャリズムは、実践のなかで試行錯誤して解決を探すという当事者よりの体験がなく、教科書や講義から学んできた知識人の考えなのかもしれません。

また、この「エビデンスの有無によって効果のない手法を淘汰する」というのは、さんざん人をモルモットに試行錯誤してきた権威セクターが、後発のアプローチに試行錯誤を許さないことで参入障壁をつくる仕組みでもあります。

「薬物療法は副作用に注意して上手にやりましょう」というのも、さんざん副作用の犠牲を人々に強いてからたどり着いたものです。一部にうまくいっている人たちがいる〇〇療法を、エビデンスがないからと批判して、希望者が試してみることさえ許さず撲滅しようというのがエビデンシャリズムの実態です。

プラントハンターという仕事があります。密林の中でランなどの花の新種株をみつけてくる仕事です。珍しく美しい株は生花業界で高く売れるわけです。ところで、プラントハンターは新種株を見つけて採取すると、その一帯の株を焼き払い絶滅させて、競合の手に渡らないようにするそうです。どこまでホントかわかりませんが。

経験と勘の実践の世界で形になってきたメソッドを拾ってエビデンス付けて販売し、一方で経験と勘の実践者たちを「非科学的な自己満足だ」として潰してゆく学術界は、プラントハンターを思わせます。

たとえば、愛着安定化のセラピー「理想の親子のロールプレイ」には感情の前処理があってはじめて効果がでます。しかし、それを検証するためには「前処理が必要だろう」という仮説がなければ検証もされません。その仮説が検証の対象になるためには、「どうやらこうすると上手くいくようだ」という経験と勘で実践される段階が必要です。「エビデンスのあるものだけが正しい」「経験と勘に頼っていけない」というエビデンシャリズムでは仮説が生まれず、間違ったやり方、未完成のやり方によって効果のある手順が禁止されてしまいます。これは「ダメ出しをしてアイデアをつぶす企画会議」によく似ています。

正しいエビデンスベーストアプローチは、エビデンスないものを排除するのではなくて、エビデンス(既知の情報)とタブララーサ(未知)と経験的直感が必要なのです。測定機器で物理量を測る生物医学と違って、心はセラピストの内省を通してのみ観察できる部分がありますので、セラピストの(自らの)経験と勘が重要になってきます。

※ちなみに、行動主義という立場は、内省ではなく測定可能なものだけに判断を頼る傾向があります

※エビデンスベーストアプローチは、もとも医療(生物医学)で流行しているモデルです。物理化学を使って生物として人間を扱う医療では理にかなってます。

エビデンシャリズム(エビデンス警察)では「エビデンスのないものを振りかざして行う心理セラピーはセラピストの自己満足だ」「エビデンスによって効果のないものを淘汰しよう」などと言われますが、エビデンスというのは肯定するためのものであって否定するためのものではないはずです。クライアントは様々なので心理セラピーには多様性が必要です。正解はクライアントの数だけあると思っていないと扱えないこともたくさんあります。クライアントの言うことを信じて科学や心理学の知識を捨てたとき上手くいったというケースもあります。

効率のためにはエビデンスがあることだけをする心理サービスもあってよいですが、それ以外のことをする心理サービスも必要かと思います。実際に権威のあるサイコロジストと手法で上手くいかなかった人たちが、在野のセラピストのところにきて上手くいくことがあるのは、エビデンスに拘らないオーダーメイドな心理職も多様性の中にいるからだと思います。

「効果」が全てではない

「効果」があればよいのか

たとえば、「多動症の子供の足を椅子に縛りつけると離席しなくなる」というのを検証すると、科学的に「効果あり」と実証されちゃうでしょう。

たとえば、非人道的で救済になっていないと批判されているロボトミー手術も科学的に「効果あり」と実証されて、ノーベル賞まで与えられました。
科学的とはそういうことです。
今日「科学的」とか「エビデンスがある」とか言われている療法も似たような印象をうけることがあります。

測定しにくい「成果」がある

何を成果とするのかにも影響します。エビデンシャリズムでは「症状がなくなる」ことを成果としますが、「幸せになること」「生きててよかったと思えること」などは成果として定義しにくくなります。そうすると、「暴力被害者の悪夢やフラッシュバックが止まっても心の傷は癒されていない」などということが見逃されたりします。そのようなことは実際に起きていると聞きます。薬物療法のように「症状を治す」目的は検証しやすいですが、「幸せになる」目的は因果関係が特定しずらく検証しにくいです。

準備効果というのもある

心の成長をともなうお悩み克服には、無駄のような寄り道が「それもまたプロセスの一部」ということがよくあります。

たとえば、人に言えない悩みというのもあります。家族の秘密、性暴力被害、罪悪感のある過去などなど、数十年間も誰にも相談できなかったというような悩みを打ち明けられるのが心理セラピーの現場です。

いわゆる治療期間よりも、誰にも言えない数十年間のほうが何十倍も長いのです。これは治療期間にのみ対象者に関わる支援職や研究者研究者には想像しにくい数十年間です。

人に言えない悩みを持つ人たちの多くが「信用できる人を探して、話す」という練習をしている段階にあります。むしろ専門家などに相談せずに生涯を終えるようとしている人もいます。

ある種の心理支援サービスは、「効果がある」からではなくて、「セラピストの人柄を確かめやすい」とか「セラピストを試しやすい」という価値もあります。「医師免許を持っているから、資格を持っているから、科学的だから信頼してください」とうのは業界の都合です。

それが治療効果のないナンチャッテ心理療法だったとしても、その人が初めて悩みを支援者に話せて、なんらかのワークをできたなら、それは数十年間をかけた大きな一歩であったりします。

「信用できる人を探して、話す」という練習をしている段階の方々にとって、むしろ治療効果なんかないほうがよいのかもしれません。だから「〇〇占い師/〇〇心理師のところでワークをやってみたけどあまり効果がなくて」というのも、それが言えること自体が重要な準備になっていることがあります。

効果のないナンチャッテセラピーとか、プロのオマジナイ師というのは、私はこの世に必要だと思っています。

その他の先行プロセス

治療効果はないけど、「心を開く」練習となる心理療法的ワークもあります。それはデリケートな人にとって、心を開くという実験行動であって、それもむしろ効果(変化)がないことが重要なのかもしれません。

某NLPや某コーチングなどで広義トラウマは解消していなかった人も、それらをやっていたおかげで、感情力動の心理セラピーのコツがすぐにつかめる人は多いです。

ときに素人っぽいセラピストに人気があるのは、効果がないことが求められているのかもしれません。心理セラピー事前相談をしていると、「いままでの心理セラピーは効果なかったけど、それらのおかげで準備ができてきた」なんてケースもよくあります。(私のところでは、期を熟して来る人も多いので、これはよく見かけます)

「自分を責めない」練習、そのための先行プロセスが必要な人もあります。

先行プロセスにすらなっていない心理支援サービスもあるかもしれまえせんが、私が悩み克服の当事者側として振返ってみると、いわゆるハズレだったサービスもよほど悪質でなければ殆どよい経験になっているように思います。

効果のない心理療法を制度などによって撲滅する発想は危険だと思います。

どちらかというと、避けたい寄り道は薬漬けのような「権威に従っていた」「妄信し続けた」や期間、悪い意味での依存、逆効果のために頑張りすぎる「強化サイクル」期間だと思います。

「信頼が要」の時代に

エビデンス”のみ”を重視する人たちがいるのは、販促の影響のみならず、心理セラピストたちの人間としての信頼が弱くなってきてるということかもしれません。深刻な心の問題の諸分野で「信頼が要」と叫ばれてる時代ですが。

また、実体験をもたない心理支援者が増えていることとも関係しているかと思います。今日ではセラピーを受ける体験をせずにセラピストになる人が増えています。実体験がなければ、頼りになるのはエビデンス情報だけになるのもわかります。

参考リンク

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