タイプ論による人間観の時代は終わっていると思う理由

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性格分類などのタイプ論は楽しいです。「○○診断」「○○占い」とか。

人は自分や他人にラベルを貼ると安心します。(タイプ論に限らないですが)

タイプ論セミナーでは、質問者が長々と質問した後につぶやきます。「ふー、これでわかったわ。だからうちの旦那は、ああなんだ」。

タイプ論を覚えて人を診断してあげると、相手は目を輝かせて聴いてくれるので、なんだか先生っぽくなった気分を味わうこともできます。

自分がそう感じるからといって、人もそう感じているとは限らない。人によって正解は違う。そういったように、多様性を知る入門としては、重要な役割を果たしています。

 

しかし、人間観としてのタイプ論の時代は終わり。と感じる今日この頃です。タイプ論が悪いとは思いませんが、それは物語の前半を担うものという印象です。

ツールであって、人間観ではないとでも言いましょうか。

タイプ論のグルたちも、タイプ論で自分を縛ることはしないようにしましょうと言っています。言い訳のためではなく、成長のために使いましょうと。

 

ずいぶん前から、特性論というものがあります。たとえば、Strength Finderは、分類や二者択一ではなく、パラメーターの組み合わせだと言っていたかと思います。無限にも近いバリエーションがあると。

そして近年、マインドフルネスの研究者の間では、「瞬間ごとに創発される自己」というものへの気づきが語られています。「私」がどんな人間であるかは、その瞬間ごとに選ばれるというのです。

性格というものを研究してきた心理学者が、パーソナリティの学会で、性格というものは人の本質を決めるものではないように思うと語ったりするのです。人間と真剣に向き合うと、そんなところにたどり着いてしまうようです。

つまり、数パターンに分類することの限界、決定論(一生変わらない)的にとらえることの危険が懸念されているのかなと。その前提で、生活や生き方のヒントにしたりはできると思います。

セクシャリティ/ジェンダーの世界では、男、女の2種類の人間しかいないという思い込み(暗黙の決めつけ)を解くために、LGBTという言葉ができました。それだけじゃないよと、LGBTQAという言葉をつくりました。言葉を追加した動機は、分類したいからではなく、暗黙の決めつけを解きたかったからです。当事者が「私はTかな」などと言うとき、「自分をカテゴライズしない方がいいよ」と的外れなアドバイスをする人がいますが、当事者はカテゴライズをしたいから言っているのではなく、別のカテゴライズによる誤解(決めつけ)を解きたいだけなのです。

人が自分をカテゴライズしたがっているように見えても、実は「私は私」ということを確認したいという気持ちの方が深いのではないでしょうか。

共通点のある少数派が集まって安全な場をつくったり、集まることで存在感を強めたり、というのは緊急避難として必要なのですが、ゴールではないように思います。

十人十色が受け入れられている、そんな種類の安全な場が最近は好まれているように思います。

実はマジョリティなんて存在しないよ、という安全が幸せなのではないかなと思います。時代はそのあたりを向いているのではないかと。

 

 
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