「認知の修正」が中心でない心理セラピー

クライアントさんに変化が起きるとき、心の振舞い方が変わります。それはパーソナリティの変容とも呼ばれます。生きづらさから解放されてゆくときもそうですし、ある種の精神疾患の回復にも関係します。

ここでは、狭い意味での「認知の修正」アプローチとは異なるセラピーがあることを例を挙げてみてみます。

認知の修正

たとえば「うつ」などは疾患として扱われることが多いです。そのような場合は、認知の修正によって回復に向かうことが知られています。

たとえば、職場の同僚が挨拶を返してくれなかったときに「私は嫌われている」というような自動思考が起きていて、その根底に「私は嫌われるような人間だ」というような信念があるような場合には、「私は嫌われている・・・かどうかは分からない。挨拶が返ってこないのには、聞こえなかった、忙しかった、挨拶が苦手な人であるなど、他の理由もありえる」というように、合理的な考え、バランスのとれた考えへと、考え方の癖を変えることで、認知の修正を試みます。

狭い意味での認知療法というのは、そのようなアプローチです。

※広い意味で捉えると、あらゆる療法が同じになります。

トラウマや喪失のお悩み

一方で、トラウマや喪失のようなお悩みでは、「認知の修正」が難しい場合があります。

※事例は仮想事例です。

例1 修正ではなく決断が必要な場合

たとえば、性暴力被害トラウマをもつ方が「私は汚れている」と言ったりします。それを解くのも認知の修正と言えなくないですが、「ほんとうに汚れているのだろうか?」「もっとバランスのとれた考え方はできないだろうか?」というように理性に訴えても上手くいきません。

なぜならそれは、「間違った思い込み」ではないからです。それは自分を守るため、不安を乗り越えるため、世界を恨まないため、などなどの深い大切な背景心理があったりします。

ですから、その背景心理ごと扱う必要があります。

そして、「私は汚れている」が「私は汚れていない」に変わるのは、それが合理的だからとか、バランスがとれているからとか、正しいからというよりは、本人の自由な選択であることが本質となります。

すなわち、「私は汚れていない」なぜなら「私がそう決めたからだ」「それを決めるのは私だ」というように。どのような言葉がしっくりくるかは人にそれぞれですが。そうすべきだからではなく、それが治療成功だからでもなく、本人の選択であることが重要です。

これを人間性アプローチでは、「認知の修正」と呼ばずに、「再決断」と呼びます。

「修正」は主語が治療者になり得ますが、「決断」は主語がクライアント本人でしかありえません。そもそも自由が奪われたことがトラウマなのですから、これは重要なことです。

結果的に認知は変化するのですが、変えることよりも選ぶことを重視しているという点で、狭義の(古典的な)認知療法とはアプローチが異なります。

例2 置き去りにされた心

たとえば、いつも上司と喧嘩してしまう。そのとき「上司が私を馬鹿にしている」という自動思考があったとします。その奥には「私には価値がない」という劣等感があるというような場合。

認知修正のアプローチでは、「上司が私を馬鹿にしている」というのは確かか事実ではないということに注目して解いてゆきます。

しかし、「そんなことは分かってますよ。上司が私を馬鹿にしているというのは私が勝手に思っていることです。そんなことは分かっているけど、喧嘩してしまう。だから相談に来ているんですよ」というクライアントがいます。というか、Kojunのところにはそういうクライアントしか来ないですが。

そのような場合には、クライアントの幼少期の馬鹿にされた原体験などを扱うことがあります。そのときに言えなかった「僕は馬鹿じゃない」を言うまで、その劣等感は解消されなかったりします。そこには、深い悲しみや追い詰められる想いなどがあり、それにちゃんと触れて癒す必要があります。

そこを置き去りにしたまま、「上司が私を馬鹿にしているわけじゃないかも」などの自己説得は、足を踏んだ人から「今は踏んでませんよ」と開き直られるような体験なのかもしれません。

そのような場合は、強烈に認知修正への反作用が起きるわけです。頑張って直そうとすると、努力逆転して直らないということになります。

これもやはり認知は変わるのですが、過去を扱うという点で、典型的な認知療法とは異なるアプローチでしょう。

過去を扱う必要があるという意味で、私はこれをトラウマと呼びます。

また、症状をなくすことがクライアントの目的ではないこともよくあります。

例3 何か/誰かを守っている

たとえば、「男性って必ず暴力ふるうよね」という人(女性)がいます。これを認知修正アプローチで治療するとすれば、「すべての男性が暴力をふるうわけではない」とか「暴力をふるわない男性にも会ったことある」ということに気づいてゆくことになるでしょう。

その気づきを繰り返すことで、そのような刻まれた思い込みが解けてゆく場合もあるでしょう。

けど、そのような思い込みが刻まれるには、相当な心理的背景があることもあるでしょう。そこを扱わずに、認知の修正をしても、異なった形で問題が出てきたりすることもあります。たとえば、「暴力をふるわない男性もいるよね」って口癖のように言い続けるとか、暴力をふるわれても気にする素振りを見せないとか、自分から先に暴力をするとか。

そのような場合の背景を本人と一緒に探ってゆくと、幼少期に父親が母親を殴っていたという場面が出てくるかもしれません。そしてイメージワークで本当に気持ちに触れてゆくと、「そんな父親であってほしくなかった」という気持ちが見つかったりします。このあたりは言葉にならない世界ですが、説明のためにあえて言うならば「父親は女性を殴る」ということを真実にしないために「すべての男性は女性を殴る」を選んでいたのかもしれません。

だとすると、その「間違った信念」は間違っているのではなくて、本人をずっと守って助けてきたのです。そして、その信念を捨てるように人から助言されるたびにその守りは傷ついてきたのかもしれません。

そのような場合には、父親への愛憎を統合してゆくセラピーが必要です。そのうえで、自分を守ってきたその不適切な信念に感謝しながら、手放してゆくわけです。ここでも信念が手放される理由は、間違っているからとか、不合理だからではありません。

ここで必要なのは合理性よりもむしろ、矛盾をゆるす、不適切をゆるす、そんな空間です。

これもまた認知は変わるのですが、それは結果に過ぎないとも言えます。十分に葛藤を味わうことも大切です。

認知を変えることが本人にとって良いことなのかすら、ゼロベースで問うアプローチです。

感情体験を扱う心理セラピー

置き去りにされた真実とか、原体験とともに隠された本当の気持ちというようなもの、恨んでいたつもりが愛していたとか、本当は怖かったということ、誰にも理解されない深い悲しみなどに触れるとき、本人(クライアント)は激しい感情体験をします。心理セラピストは感情表出を扱い、受け止めることが必要です。

狭義の認知修正アプローチよりもセラピストの個性や特性が強く出ます。

Kojunの経験では、そこに立ち会う心理セラピストの感覚は、クライアントと一緒に崩れ落ちながら、そこにちゃんと立っている感じです。そこに触れることがいかに難しいかということも、触れても大丈夫ということも分かっている必要があります。なぜ分かるかというと、クライアント自身がそれを教えてくれているからです。

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

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