洞察はときに盲目の原因となる
ポール・ワラウィック
そうだなと思います。
短期療法という言葉は、過去や原因を扱わずに、解決に焦点をあてようという意味で説明されること後多いです。
精神分析の提供する原因論は役に立たないと。
私は短期療法で、解決に焦点をあてますが、精神分析(ただし本人中心の)や原因探しを否定しません。
「原因探しは目的ではない」と「原因探しが役に立たない」を区別しています。
参考記事:原因論の罠
過去いじり問題の本質は、痛みを知る当事者ではない専門家が心理学的な興味から人を診ることでしょう。
専門家の目的は心理学的な興味ですから、原因探しが目的みたいになってしまうのです。
痛みを知る当事者の目的は、幸せになることですから、それが。
私もプロにもアマにも役に立たない浅はかな精神分析を受けてきました。ですから、精神分析なんか役に立たないと言いたくなる気持ちはわかります。
でも、それはその分析が浅すぎるか、的外れ(目的と関係ない)かなのだと思います。
それはクライアントが幸せになるための分析ではなくて、専門家が活躍するための分析なのでしょう。
ときには悩みの当事者自身が、分析のための分析をしていることもあるようです。
それは、ラベリングによる癒しが強化している場合などです。原因がわかってホッとする。それで自己分析依存性になる。
おきることは
- ラベリングによる癒し
- カタルシス(抑圧の解放)
- 葛藤への直面化
「私は愛着障害だ」と気づいて自己否定から解放されるみたいなです。根本解決ではなく応急処置になることが多いです。ラベリング依存性、自己分析依存性みたいに。
父が母を殴るのは「悲しかった」とやっと言えて、年上の男性へのヘンテコ反応がなくなるみたいな。
「幸せなりたくない自分がいる、なぜならあの子に申し訳ない…」「失敗をおそれる自分がいる、なぜならあの人を悲しませたくないから」
なにかを手放すとき、または人生を選ぶときが現れる。
カタルシスも葛藤への直面化も起こさない精神分析は嫌がられてしかるべき。でも、それはセラピーとしては上手くいっていないのであって、まだ価値ある精神分析を体験していないのかも。
深層心理が暴かれることへの抵抗は、ここで言う葛藤への直面化ではありません。
「あなたの原因はこうだ」という専門家や他者にほじくられる痛みと、「私は幸せになっていいのかしら?」という葛藤は全く違います。
原因探しという言葉を使いましたが、原因を潰すことで解消しようとしているわけではありません。
これは病気の診断とまったく異なる点です。
行動主義アプローチでは問題の原因は取り除くべきものですが、精神分析/人間性アプローチでは問題の原因は癒すべき預言(メッセージ、人生からの問い)です。