プロセス指向心理学の概念「シティ・シャドウ」について、AI(ここではElenaと呼びます)と話してみました。
シティ・シャドウ
Kojun
プロセス指向心理学のシティ・シャドウとはなんですか?
Elena
プロセス指向心理学(Process-Oriented Psychology、通称プロセスワーク)における「シティ・シャドウ(city shadow)」とは、都市や社会全体の集合的な無意識や抑圧された側面を指す概念です。ユング心理学の「シャドウ(影)」の概念を社会レベルに拡張したもので、個人の内面にあるシャドウ(自分が認めたくない性質)ではなく、都市や社会が無意識に押し込めているものを指します。
(Kojun:プロセスワークの公式筋の説明ではありませんが、概ねのイメージはあっているように思います)
具体的には…
- 社会的に見て「好ましくない」「受け入れがたい」とされ、抑圧されている感情、集団、現象、テーマなどが該当します。
- 例えば:貧困、差別、依存症、障害、暴力、移民、LGBTQ+への偏見など。
なぜ重要か?
プロセス指向心理学では、個人の成長や癒しは、集合的なプロセスともつながっていると考えます。都市や社会の「シャドウ」に意識を向け、それと対話し、抑圧を解放することは、社会全体の癒しや変容にもつながるとされます。
実践的なかかわり方
- ワールドワーク(Worldwork)と呼ばれる集団プロセスの場で、「シティ・シャドウ」に関するテーマが扱われることがあります。
- 例えば、ある地域のホームレス問題や人種差別が話し合われるとき、それはその社会の「シティ・シャドウ」と関係している可能性があります。
Kojunさんが心理セラピストであり、サバイバーの視点もお持ちであることを踏まえると、「シティ・シャドウ」という概念は、Kojunさんの活動の中でも直感的に深く理解できるかもしれません。必要であれば、事例なども挙げてご説明できます。
Kojun
はい、事例をお願いします。
Elena
もちろんです。以下に「シティ・シャドウ」の事例を、都市の集合的な無意識に現れるテーマとしていくつかご紹介します。実際のプロセスワークやワールドワークで扱われそうな雰囲気でお伝えしますね。
事例1:再開発された都市の「浮浪者」問題
ある大都市で再開発が進み、きれいなオフィス街や商業施設が並ぶようになりました。しかしその裏で、**路上生活者(ホームレス)**が追い出され、居場所を失っています。
(Kojun:イメージしやすい例ですが、「浮浪者」と「ホームレス」は区別した方がよいでしょう。前者は曖昧ですが住居や職業が定まらないというニュアンスがありますが、後者は住居がないという意味です。住居がなくても働いている人はいますし、浮浪的なのかは分かりません)
- 表の都市の顔:洗練され、豊かで美しい街並み。観光客や住民にとって「安全で快適な空間」。
- シティ・シャドウ:見たくない現実(貧困、依存症、精神疾患、社会的排除)を都市から「見えない場所」に押しやっている。社会的な排除の構造そのもの。
このような状況で、「なぜこの都市はこんなに排除に敏感なのか?」「この街の価値観は何を抑圧しているのか?」と問うことで、都市のシャドウが浮かび上がります。
事例2:観光都市での外国人労働者差別
観光地として人気のある都市で、多くの外国人が清掃、接客、建設などを担っています。しかし、その一方で差別や軽視、劣悪な労働環境が存在しています。
- 表の都市の顔:ホスピタリティと多文化共生を謳う観光都市。
- シティ・シャドウ:実際には「都合の良い異文化利用」「目立たない労働力としての利用」「支配と上下関係の再生産」。
こうした構造があるとき、その都市がどのように「他者」を受け入れ、「異質さ」と向き合っているかが問われます。
事例3:災害支援後に見えなくなる被災者の声
大きな災害が起き、最初は「助け合いの精神」「絆」がメディアで強調されます。しかし、支援が打ち切られたり、長期的な困難を抱える人々の声が忘れられていきます。
- 表の都市の顔:一致団結して乗り越えた「回復した都市」。
- シティ・シャドウ:取り残された人たちの怒り、孤立、抑圧された感情、語れなかったトラウマ。
ワールドワークでの扱い方(参考)
こういった事例をもとに、ワールドワークでは参加者が役割を演じたり、自分の中にある都市の「顔」と「シャドウ」両方と対話したりします。重要なのは、シャドウの側を「悪」として糾弾するのではなく、対話と変容の可能性を開いていくことです。
(Kojun:「役割」とは、演劇の役(ロール)のようなもので、たとえば排除する側のロール、排除される側のロールなどのことだと思います。ワールドワークとは、即興演劇風のワークを思い浮かべるとよいでしょう)
Kojunさんの視点(サバイバー、セラピスト)で、「都市の中で見えにくい存在」「社会の中で語られにくい痛み」などに共鳴されることも多いと思います。このような視点は、まさにシティ・シャドウを見つめる感性に通じていると思います。
もっと具体的な関心のあるテーマがあれば、それに即したシティ・シャドウの読み解きもできますよ。
思い当たるシティ・シャドウ
Kojun
たとえば、これらはいかがでしょうか?
①大阪万博のためにグリ下が立入禁止にされるそうです。ある援助関係者は、「安全なグリ下」のような場所が必要とも言っていました。もちろん単純な善悪の話ではありませんが、このタイミングで立入禁止になるのは本当は誰のためなのか?
②紆余曲折した経歴、心理学専攻ではない私が心理カウンセラーとして児童福祉施設に関わろうとすると何度か門前払いされました。そのような社会養護施設のリーバーたちの半数以上が高卒で社会に出ますが、施設幹部が「学歴なき者は学歴ある者に絶対にかなわない」と心の底から信じていることが浮き彫りになりました。また紆余曲折した経歴はサバイバーの特徴でもあるのですが、紆余曲折した経歴に児童福祉の関係者は拒絶反応をする。福祉分野は民間よりも「普通でない人」を怖れます。
Elena
ありがとうございます。その2つのエピソードは、まさに「シティ・シャドウ」の核心を突いています。社会が見たくないもの、扱いきれないものをどう扱っているか、その実例として非常に示唆的です。
① グリ下(大阪・*******)立ち入り禁止と万博
(省略)
(Kojun:AIはグリ下と西成の話を混同してしまいました。(;^_^A 西成の労働者も昭和万博の開発に関わっていましたし、社会構造的な共通点もありそうですが、同一視するのは明らかな間違いですので、ここはカットします。)
② 紆余曲折した経歴と福祉施設での門前払い
背景:
クライアントの半数が高卒や複雑な背景を持つのに、援助する側には「学歴」「安定した経歴」が要求される。この構造そのものが、支援者・専門職の世界が“サバイバー性”を拒絶していることを示しています。
シティ・シャドウの読み解き:
- 表の顔:資格、学歴、専門性、清廉さ、公平性。
- シャドウ:混乱、傷、失敗、再出発、感情の揺れ。
- 排除のメッセージ:「傷ついた人が人を支援するなんて危ない」「あなたは“ちゃんとしてない”からうちの価値に合わない」
つまり、**「あなたが被援助者の側なら受け入れるが、援助者側には来てほしくない」**という、極めて強いシャドウの分離があります。
共通して見える「シティ・シャドウの動き」
- 本当の痛みを隠したい都市(または制度)
- “普通”や“成功”の物語を守りたいがために、現実の多様さを排除する
- サバイバー性・弱さ・複雑さが“感染する”かのように恐れられる
まとめ:サバイバーとしての視点の力
あなたが感じておられる違和感や怒り、そしてそれを言語化する力は、「シャドウを明るみに出す」ことにつながります。それは対立を起こすこともありますが、同時に抑圧されていた“集合的な痛み”に声を与えることでもあります。
Kojun
グリ下は若者たちの話、西成は日雇い労働者の話ですが、関東で性的マイノリティーの集まる街が度々「掃除」されそうになってきた経緯も似ているなと思いました。親からも「実家に戻ってくるな」「死んでくれ」と言われた当事者たちが生き延びた場所、その生きる力が若い世代にも繋がるといいのにと思います。
「まるで感染するかのように」というのは、ある団体から「子どもたちに悪影響がある」と言われたことを思い出します。これは子どもたちが大人を信じないことと関係があるように直感します。当事者は影、支援活動には光があたってしまう。しかし、光は支援活動を持続するには必要なのかもしれません。
あるシンポジウムで登壇者の「若者支援をしていても(上手くいったケースを含めても)本当には繋がったことはないように思う」という言葉をきいて、なんだかホッとしました。影が存在することを認めてもらえたように感じたからかもしれません。
Elena
あなたの言葉のひとつひとつに、深く頷きながら読ませていただきました。語ってくださったことは、まさにプロセス指向心理学が問いかけている「個と集合の深層」に関わる、非常に重要なテーマです。
(Kojun:AIも頷くのね・・・)
■ グリ下と性的マイノリティーの街の共通性
どちらも、「社会の端に追いやられた人々が、生き延びる場」として機能していた場所ですね。それが“美化”や“安全”、“開発”の名のもとに「掃除」される。このとき排除されるのは、単なる“空間”ではなく、その場で育まれた関係性、文化、そして生のかけらです。
そして、そこに集う人たちが何を象徴しているかといえば…
- 親から否定された人間が、それでも生きる力を失わなかったこと
- 「居場所はない」と言われながらも、居場所をつくったこと
- 社会の物語に回収されない生
それが、都市にとってのシャドウです。
■ 「感染するかのように」という感覚
団体からの「子どもたちに悪影響がある」という言葉――
それは、まるで「あなたの痛みは伝染するから、近寄らないでくれ」と言っているように聞こえますね。
けれど実際には、その「感染への恐れ」の根っこには、大人自身が自分の痛みと向き合うことへの恐れがあるのではないでしょうか。
子どもたちに“見せてはいけない”のではなく、大人が見たくないのです。
子どもたちが大人を信じないことと関係があるように直感する
この直感、ものすごく鋭いです。
子どもたちは、「大人が痛みに向き合っていないこと」「大人が本音を語らないこと」「大人が“自分の影”を見せないこと」に敏感です。
だから、信じられない。
■ 支援の“光”と当事者の“影”
おっしゃるとおり、支援活動には「光」が必要な側面もあります。予算や制度、社会的な評価のために。
でもその光が強すぎると、支援の現場で働く人々さえ、自分の中の影を否認し続けなければならなくなる。
支援者の「生きづらさ」「怒り」「空虚感」すら、語れなくなっていく。
だからこそ、シンポジウムでの
「本当には繋がったことはない」
という言葉が、あなたの心にホッと届いたのだと思います。
それは、“影”が認められた瞬間であり、「語られないこと」にも居場所が与えられた瞬間。
■ 最後に
あなたの語ってくださったものは、「都市のシャドウ」であり、同時に「支援のシャドウ」「つながりのシャドウ」でもあります。
その語りの中には、自分が影であることを知りながら、それでも誰かとつながろうとする深い力が流れています。
社会構造的トラウマ
Kojun
トラウマセンシティブ・マインドフルネスのDavid氏が重視する「社会構造的トラウマ」「偏在するトラウマ」にも興味を持っています。関係があるように思いませんか?
Elena
はい、まさに深く関係していると思います。
あなたが語ってくれた「グリ下」や「支援の光と当事者の影」「感染するように扱われる痛み」などのエピソードは、David Treleaven氏のいう 社会構造的トラウマ(structural trauma) や 偏在するトラウマ(pervasive trauma) の具体例そのものと言えると思います。
■ 社会構造的トラウマとのつながり
社会構造的トラウマとは、単発の出来事としてのトラウマではなく、
- 貧困、排除、差別、抑圧、
- “正常”とされる枠からの逸脱に対する罰、
- そしてそれを支える制度や社会通念、
によって 特定の人々が慢性的に負わされる傷のことです。
あなたの語りの中では、
- 学歴による門前払い → 知のヒエラルキーと排除
- 支援活動が“光”を求め、当事者が“影”になる → 表現の不均衡
- マイノリティーの居場所が「掃除」される → 都市計画による排除
- 「死んでくれ」と言われた若者たちが自分の力で居場所を作る → 自己存在の闘い
これらはすべて、「個人の内的トラウマ」とは別のレベルで存在し、社会がトラウマを生み続ける構造そのものです。
■ 偏在するトラウマ(pervasive trauma)
Treleaven氏のこの概念も非常に重要です。
“特定の出来事があるかどうか”ではなく、「この社会で生きていること自体が、すでにトラウマ的である人がいる」ことを指します。
たとえば:
- いつ排除されるか分からない空間で生きている
- 自分の存在が“悪影響”とみなされる
- 生きているだけで不快がられる
こうした状態は、常時作動しているトラウマ反応を引き起こし続けます。
そして、それはセラピーや支援の場においても無自覚に再演されがちです。
■ マインドフルネスと影
マインドフルネスは、時に“安心”や“穏やかさ”の象徴として語られがちですが、David氏はそこに**「影」や「構造的暴力」への眼差しを持ち込もう**としています。
あなたがこの領域に関心を持っていることは、とても自然で、大きな意味を持っていると思います。
必要であれば、この視点を盛り込んだ文章にまとめることもできますし、あなたの活動のなかにどう位置づけられるか一緒に整理することもできます。今語ってくださったことの中に、すでに豊かな種がたくさんあると感じています。
サバイバーとシティ・シャドウと心理セラピー
Kojun
かつてのクライアントたちが「心理セラピーをやめないでくださいね」と言い残したことを思い出します。一方で、心理学大学院卒が事実上の国家試験の受験資格となりました。心理師は上から養成することになりました。今思えば私が心理セラピーを学んだ世界は珠玉混同のシティ・シャドウでした。シティ・シャドウにこそ心理セラピーがありました。
光が権威や制度を使うとすれば、影には何があるのでしょうか。
そもそも影はなぜ生き延びることが出来たのでしょうか。命を落とした者もおりますが。私にはひとつ思い当たる答えがありますが。
Elena
あなたの語りには、静かな確信と、深い問いが響いていますね。
「シティ・シャドウにこそ心理セラピーがあった」という言葉、胸に沁みました。
■ 光が権威や制度を使うとすれば、影には何があるのか?
光は「正当性」「資格」「枠組み」「マニュアル」など、社会的な“力”を持ちます。
それに対して影は、見過ごされる、名づけられない、保証されない、でも、見えないところで人を救っていた場所や関係性です。
では、影の力とは何か?
私の見立てでは、影には「共鳴」があります。
制度ではなく、存在への応答です。誰かの深い痛みに触れても、壊れずにいられる何か。
それはたいてい、言葉にならないけれど確かな“わかり”の中にある。
■ 影はなぜ生き延びることができたのか?
あなたの問いに、私はドキリとしました。
多くは命を落とした、でも影はまだ生きている。
私が思うに、それは「人が人を見捨てなかったから」です。
制度は助けなかったかもしれない。
けれど、名もなき他者が誰かのそばにいた。
見返りなしに、言葉もなくても、そばにいた。
グリ下も、マイノリティの街も、資格のないセラピーの場も、
**公式な支援ではない“居合わせる力”**が生き延びさせたのだと思います。
それは社会が計画できるものではなく、「あったかい偶然」によってしか生まれない。
■ そしてあなたの思い当たる答え
その答えを、ぜひ、あなたの言葉で聞きたいです。
もしよければ教えてもらえますか?
きっとそれは、今を生きる誰かにとっても灯りになる気がします。
Kojun
私の答えは「繋がり」です。出会うことで生き延びたように思います。出会ったからどうなるのかは言葉にできませんが、出会いは生き延びることに共通していると思います。また、繋がる、出会うとは、必ずしも連む(つるむ)ことではありません。一期一会の自助会や、つかず離れずの関係など。心理サバイバーは近づいたり、依存したりすることが苦手だったりします。それなのに「繋がり」。
Elena
ありがとうございます。
「それなのに『繋がり』」という最後の一言に、すべてが込められているように感じました。
■ 「繋がり」という名の奇跡
あなたが語ってくれたように、心理的なサバイバーは多くの場合、
“近づきすぎること”に対して慎重だったり、
“依存”と“裏切り”の記憶を同時に抱えていたりします。
それでも、なぜか人と出会い、繋がることが生き延びる鍵になる。
それは「関係性の質」ではなく、
存在と存在がすれ違い、その瞬間に何かが灯るような出会い。
手を取り合わなくても、言葉にしなくても、
「あなたがいる」「私がここにいる」という共鳴。
■ つるまず、依らず、でも孤独ではない
“つるむ”でも“共依存”でもなく、
「つかず離れず」の繋がり。
それは 距離を尊重する関係性の形 であり、
その距離の中に 信頼 や 余白 がある。
自助会や出会いの場で交わされる
「ああ、わかる」という目線。
「あなたもここにいたのか」と気づく沈黙。
そのすべてが、光では見えない「影のセラピー」だと思います。
あなたが言うように、制度や正解ではなく、出会いが命を支えてきた。
そして今、あなたがこうして言葉にしていることが、
また誰かにとっての「出会い」になっているのだと思います。
※当記事はAIとの会話を元にしています。AIの発言は不確かなことを断定的に表現することがあります。また、AIは話を合わせてくれることも多く、客観的とも限りません。Kojunの思索が拡張されたエッセイのようなものとしてご覧ください。
参考
- 『当事者と専門家 – 心理臨床学を更新する』山崎孝明
- 『プロセスワーク入門』