臨床心理学と数学的発想

臨床心理学は科学だという主張がありますが、そこには数学が不足していたような印象があります。

数学といっているのは数値データを扱うことではありません。計算や集計をすることでもありません。どちらかというと集合論のことです。

データを使って白黒ハッキリさせるみたいなことは「争い」であって「科学」ではないと思います。

自然科学は分野を超えて影響しあう時代に入っています。そこでの共通言語が数学でしょう。

数学というのは数値計算のことではありません。極論すると、数値計算はコンピュータの仕事であって数学という人の営みではありません。

たとえば、「資格がないカウンセラーはダメだ」とか「資格はカウンセラーの質に関係ない」という論争は、そもそも科学者的ではありません。理系っぽくないというか。

数値というよりも変数を扱うこと

理系では(というか数学的には)このように考えるでしょう。「資格の有無x」と「カウンセラーの良し悪しy」の組み合わせで4通りの可能性があると。その割合や確率をP(x,y)とするというように。4種類のカウンセラー(有資格、良し)(有資格、悪し)(無資格、良し)(無資格、悪し)がいるわけです。これが数学です。

ここで4つのPのうちどれが多いのかを調べたくなるのは数学ではありません。それは「争い」です。

Pの値を調べる調査結果は、覆る可能性があるし、時代とともに変化するし、制度や社会実装によって変化させることもできます。しかし、2×2の0~1実数で表現できるというのは普遍的なことです。変数を使うことで、その普遍的なところを抑えて記述するのが数学だと思います。

ここでPの値を測定して、「資格がないカウンセラーはダメだ」「資格はカウンセラーの質に関係ない」みたいな結論を出しがるのは数学ではありません。変数を見たら値がほしくなるのではなく、変数のまま扱えることが数学です。

科学者はそれらの命題が「定理」なのか「法則」なのか「状態」なのかを区別します。

ちなみに統計的調査によって「資格がないカウンセラーはダメだ」「資格はカウンセラーの質に関係ない」が判ったとしても、それらは「状態」であって、「定理」や「法則」ではありません。

値を求めて結論を出したがるのは、目的が争いだからです。

値を測定して、もしP(無資格、良し)≪P(無資格、悪し)だったとしても、それはP(無資格、良し)=0を意味しません。P(無資格、良し)≠0の少数派を研究することで大事なことがわかるかもしれません。あるいは、調べ方や、社会制度によってP(x,y)の分布が変化するということについて研究もできます。

変数に値を与えて一つの点(解といいます)を正解と決めつけてからでないと、なにも実践できないという傾向が臨床心理学には感じられます。変数を変数のまま扱えなかったとでもいいますか。

正解を一つ決めて、それ以外の可能性を否定してから活躍するというスタイルです。

これは「分からないことを減らそうとする」という脳の性質でもありますが、科学者はそれを克服して変数(値のあらゆる可能性)を扱うことができます。

関数や集合も変数の仲間

さらに「良し悪し」にもいろんな評価の仕方がありますので、それを評価関数f、評価項目集合Zとして定義します。そうすると、PはfやZに依存するということが分かります。そうなると、関心はfのバリエーションへと向かいます。

数学的な言葉を持たずに、Pの実測値を決めることに突っ走ってしまうと、これらの研究(どのように世界は変わりうるか)ができなくなり、誰かが誰かを叩いて亡ぼすための手段のような研究しかできなくなってしまいます。

変数、関数名、集合などにデータと切り離して名前をつけることで、異なる意見、異なるデータ、異なる全て条件などを共存させたまま議論や実践を続けることができます。「まずは論敵を亡ぼしてからだ」とはならないのが数学の力だろうと思います。

エビデンス(データによる強い推定)と論理的正しさを区別するための言語が数学ですね。

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