心理学は科学か?

物理学や化学を学んだ理学部出身の私ですが、どちらかというと心理学は科学ではないと思っています。とくに人の悩みを解決する臨床心理学や心理セラピーなどは、科学である必要はないと思っています。

心理学を馬鹿にしているわけではありません。馬鹿にしていたら心理セラピストやらないでしょ。「馬鹿にしている」と怒り出すのは、科学コンプレックスがある心理専門家です。

現状で科学的な詰めが甘い(未科学)という意味もありますが、科学におさまらないという意味もあります。ここでの論点は後者です。

疑似科学ではない

もう少し丁寧に言うと、臨床心理学や心理セラピーは、科学的な事柄も含むけれども、科学的でない事柄を含んでもよいという意味です。

科学以上のものであるってことです。

私は心理学が疑似科学だと言っているのではありません。私は「心理学は科学であるべき」というよりは、「疑似科学でないべき」と思っています。

私の言う「科学ではない」は「正統科学ではない」というのが丁寧な表現かもしれません。それでも馬鹿にしたように聞こえるかもしれませんが。正統科学というのは、誰もが(心理学を科学だと言う人も、そうでないと言う人も)科学だと認める物理学・化学・生物学などのことです。で、疑似科学というのは「正統科学と矛盾する(正統科学から否定される)が、科学であると主張するもの」としてみます。そうすると正統科学でも疑似科学でもないあたりに、臨床心理学は位置づけれそうです。1 それを「科学」と呼ぶことで正統科学と同じようなものだと思わせたいか、その必要はない(むしろ思わせない方がよい)かという話です。

心理セラピーのクライアントは、幸せになりたいのであって、べつに科学的な人生を送りたいわけではないので。

専門家が「科学的ですよ」と宣伝したり、「科学的でない」と競合を批判したりすることはよくありますが、クライアント(ユーザー)が「それは科学的なんですか」と問うことはあまりないように思います。非科学的なヒーリングなどの方が人気があるという論説を聞いたこともあります。

これはクライアントが専門家よりも学識が低いということではありません。クライアントと専門家は目的や関心が違う可能性があるのです。

「科学的」か「インチキ」かというような二分法は、それ自体が心の病によく似ています。

「科学的でない」ことと「インチキ/間違いである」とは同じではありません。

これは「科学的であるか」以前に潜むも誤謬で、科学主義と呼ばれます。

科学主義に陥った人は「科学的でないといけないのか」については科学的でもなく、感情論になっています。自然科学者に「あなたのやっていることは科学ではない」と言えば、「へぇー、どういう意味ですか?」と興味をもたれます。心理学者に言えば怒り出します。その差は何だってことです。

心理支援で「科学的」という言葉を使うことは、正統科学並みに再現性が保証されていると誤解させると思います。

アヤシイ商品ほど「科学的」という言葉を使う印象があります。科学、科学と主張することこそが政治的に中立ではない背景を感じさせます。その点では科学だと主張しない(しすぎない?)おみくじ/ヒーリングなんかの方がいさぎよくて役に立つかもしれません。

心理学や心理セラピーは、「科学である」ことよりも「疑似科学でない」ことの方が大事かと思います。「心理学は狭義の科学(正統科学)でもないし、疑似科学でもない」というのはいかがでしょうか。

科学主義の問題1

「科学的なものは良いもの。科学的でないものは劣る/悪いもの」と考えることは、「科学的に扱いやすいものは良きもの。科学的に扱いにくいものは劣る/悪いもの」と変換されます。

つまり、測定しやすいものは価値があり、測定しにくいものには価値がないという誤謬を起こすのが科学主義です。

心理学が科学であるべきと言われるとき、いつもこの誤謬が見え隠れします。

かつて「集団の心」という概念を使う研究が測定できないからと否定されてきました。しかし20世紀後半になると複雑性の数学などが発展し、集団の心によく似た概念が研究されています。

行動主義心理学は測定出来るのは行動だけ、測定できない内省や無意識などを非科学的と否定してきましたが、認知、感情、深層などを扱うようにモデルを拡張しています。

科学主義は、測定しやすいものを扱う専門家が、他の学派を叩くための攻撃です。

心理学の科学主義は、自然科学の科学的スタンスとはまったく異なるもののように思います。

「科学的」は販促用語

そもそも「科学的」とうたわれているものって、効果がアヤシイものしかないじゃないですか。

「電子レンジで温まることが科学的に証明されています」とかあまり言わないでしょ。もちろん電子レンジの研究開発では科学的な実験が行われているんですけどね。「科学的」と言う必要はない。

科学的かどうかよりも、科学的だと言う動機を見たほうが物事はよく見えると思います。

古代哲学者による心理学と区別したのは進歩

19cくらいまでは心理学は哲学者によるものだったそうです。そのような根拠よりも想像力に基づいていていた古代の心理学と比べて「科学としての心理学」という言葉が使われるようになった経緯があるようです。

つまり、「現代の心理学は科学だ」と言うのは、古代哲学と比べての話ですね。そういう意味では、19c以降の心理学は科学的(ただし経験科学)だと思います。

ただし、比べている相手は、電磁気学や素粒子論や免疫学などではなくて、古代の四体液説などです。

物理学者による実験心理学・生理学

19cくらいに、本当に自然科学としての心理学があったようです。それは感覚器官に関するもので、たとえば、視覚は三原色に反応するとか、残像や錯視があるとか、音の大きさの対数に比例して聞こえる/聞こえないが決まるとか、物理学の延長で実験できる領域のものでした。

でもそれは、心理学というよりは、「心理学と接点のある生理学・生物学」でしょう。

精神物理学の創始者 グスタフ・フェヒナー
物理学者・生理学者 ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ

これらの実験結果、たとえば「格子模様のこの部分に影のようなものが見える」みたいなのは再現性の高いもので、自然科学に近い意味で科学的と言えます。

スポーツなんかで、根性論と対比して「科学的な練習法」っていうのも、自然科学に近いかなと思います。そもそも運動は物理現象、生理現象なので。逆に臨床心理は科学的にやると根性論的になるというのが面白いです。

「実験」と「再現性」が特徴といえます。

「実験」と「再現性」の流れをくむ近代のものとしては、ワトソンやスキナーらによる行動主義・新行動主義・S-O-R理論というのがあります。ネズミに電気ショック(罰)や餌(報酬)を与えることでレバーを押すようになったり、押さなくなったりするみたいな法則を調べています。実験によって明かされる法則を調べます。

このあたりから、ちょっと怪しくなります。たとえば多動症の子供に罰を与えたり、足を椅子に縛り付ければ「多動がおさまる」でしょう。ですので、それらの方法は多動症に効果があると「科学的に証明された」ことになります。しかし、それでよいのでしょうか? ひねくれた例だと思われるかもしれませんが、これらは実際に行われていました。目的が奴隷の管理ならそれは科学的な方法ということでよいでしょう。目的が子供の幸せなら、科学的とは違った正しさが必要ということになるでしょう。

科学至上主義の人は、足を椅子に縛り付けられた子供が将来幸せになったかを追跡調査をして・・・・なんてことを言いますが、ご自身が足を椅子に縛りつけられていたら追跡調査を企画しないでしょう。優先順位が全く違うわけです。

「実験」と「再現性」の流れをくむ現代のものとしては、情報科学者による認知科学というのがあります。たとえば、「短期記憶はすぐに消えてしまう、ひとたび長期記憶に入ると長く覚えている」みたいなメカニズムを明らかにするものですね。それくらい再現性があれば「科学的に役にたつ」かもしれません。

臨床では斉一性原理が崩れる

科学とは何かという問いに答えようとする科学哲学には「反証主義」(ポパー)というのがあります。反証主義だけが科学の基準ではない(というか、少し厳しすぎて現代の定説ではない)ですが、心理学など人間を対象とする場合には参考になると思います。

黒いカラスをたくさん見つけたところで、「全てのカラスは黒い」という法則のしょせん帰納的推論(確実ではない)にすぎません。

では「ほとんどのカラスは黒い」なら証明されるかというと、それも否。それは斉一性原理(これまでのサンプルと推測対象は似ているはず)が前提となってきますが、それが確実性なことではないというわけです。たとえば地域によってカラスの色は違うかも知れないし、時代によって変化するかもしれません。フロイトの理論も当時の社会道徳による抑圧が前提でしたし、同じセラピーのウツへの効果が10年前とは異なったりもします。

反証主義では、たくさんのサンプルを集めても「確からしさが増す」とは考えないわけです。(←極論だが戒めとしては一理ある)

一方で、黒くないカラスが発見されたときに「全てのカラスは黒い」という法則が反証されることについては、演繹的推論(確実である)わけです。

※心理学研究でよく行われる「帰無仮説が棄却された」は似ていますが、それとは区別します。

斉一性が成立しないことは心理の分野で多そうです。
ある専門医が支援アプリの実証実験のためにネットで○○当事者をモニター募集しました。数百人が応募してきたのですが、その方々の状況はその専門医が診てきた患者たちとは異なりました。専門医が「これが○○患者だ」と思って診てきた多数の患者は、経済的に比較的安定しており、家族の支えもあるという、○○当事者の中ではむしろ例外的な人たちだったと気づいたそうです。他にも似たような話はあります。

この反証主義によると、科学は反証されることによって進歩するとうわけです。「全てのカラスは黒い」という法則があったときに、例外を見つけるのが科学者の仕事だというわけです。

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「我が学派のやりかたは正しい」ということを証明するために検証実験をしているとか、「〇〇が科学的に証明されました」というのがあまり科学っぽくない感じがするという私の感覚が、ちょっと伝わってきたでしょうか。

被虐待の影響に気づいた人たちは「子を愛さない親がいるもんですか」と説教され、セクシャルマイノリティは「正しい経験」を強要され、トラウマの影響をもつ人たちは怠け者とか性格に問題ありとされてきた歴史があります。そのような「例外的な人」の味方になるのが私の心理セラピーでした。例外を大事にする反証主義は心理支援と相性がよいように思います。

上述の依存専門医の話のように、今まで考えられていたことが全ての人にあてはまらないことが分かりましたなんていうのが、まさに科学的ということです。心理セラピーでいうと、科学が進歩すればするほど、「人に依って異なる」とか「正解はない」とか「効果がないと思われていたことにも効果がある」ということが分かってくるというわけです。エビデンスがない療法を非科学的だとして批判するなんてことも、科学者がやりそうにないことに思えます。

簡単に言えば、「経験則は覆ることがある」「経験則があてはまる範囲はあやふや」というところでしょうか。心理実践においては、心理学の例外発見情報(反証)以外の科学的情報(帰納的推論)は、大いに参考にはなるが、絶対視しないほうがいいということになります。

モデルとしての科学

反証できないものは科学ではないという考え方によると、心理学の理論には、どんなことでも説明できちゃったりするものがあります。そういうのは科学じゃないとも言えるわけです。

ですが、実践の枠組みとしては、どんなことにも当てはめることができるということが実用的だったりもします。認知の歪みとか、防衛機制とか、転移とか、トラウマとか、なんにでも当てはめることができちゃいますが、それを科学的に正しいとかではなくて、「視点」だと思って活用するなら優れて役立ちます。心理学のよさにはこちらもあるので、科学である必要がない、むしろ科学じゃないほうがいいじゃないかなと思うのはそのようなことです。

堅苦しい表現をすれば、心理学の全称命題(「全ての〇〇は△△である」)はアヤシイことが多く、心理学のモデル論(「あえて単純化するとこのように捉えることができる」)は役立つことが多い、となるかと思います。科学哲学にも全称命題としての科学と、モデルとしての科学がありますが、心理業界には後者を馬鹿にして前者を科学として強調する風潮があるように思います。逆なんじゃないかな。

科学主義の問題2

心理学は「科学だ」ということの弊害をもう一つ。

今日において、「科学」というのは「人に押しつけてもよいもの」という特権を持っています。客観的な事実なのだから、人の思想や選択の自由を奪ってもよいというわけです。つまり「科学」という言葉は力の行使を正当化します。気に入らない(他人の)活動を止めさせるなどの暴力を可能にするのです。

それは物理学や化学のような正統科学が全称命題を扱えるほど厳密であることから作られた権威性です。心理学は統計による母集団の性質を語っているので、それほど再現性のある主張はしていません。「心理学は科学である」という言葉は、それをあたかも物理学や化学のような確かさがあるかのように錯覚させます。そして、攻撃や強制のために「科学」という言葉が用いられることはしばしばです。

心理カウンセリングの場面でいうと、目の前のクライアントに起きていることと、理論が示唆することが異なった場合に、人を理論に合わせようとする力がかかります。しかし、心理カウンセリングの目的が効率や量産ではなくて人の幸せなのだとしたら、理論を人に合わせることも必要です。少なくとも、自分のための理論を探している人には「エビデンスがあるからやれ」言われて納得しない人はいます。それ自体がクライアントがかつて経験した腕力や立場をつかった無理強いと同じ構造をもつからかもしれません。

科学コンプレックス

科学的ではないことが問題なのではなくて、「科学は確かだ。それ以外は不確かだ」みたいな科学信奉が問題なのだと思います。ですが、科学になろうと頑張っちゃいます。「〇〇社会学」と言えばいいのに「〇〇社会科学」と言いたがるみたいな。

工学にも科学コンプレックスがあって、私が理系の学生だった頃にも「通信速度を改善する技術」みたいなことをしている研究者から「これはエンジニアリングではなくてサイエンスだ」と主張されたことがあります。エンジニアリングはダーティ(汚れ仕事)なのだそうです。

心の悩みの解決を探すとき、研究者の世界には科学コンプレックスがあるということを、心理学者にもそれがあることを知っておくとよいかと思います。

化粧品やサプリでも「科学的に証明された」「専門家がお勧めする」みたいな表現ありますね。権威づけると人が飛びつくのは認知バイアスのひとつです。

臨床心理学者による統計研究(量的研究)

科学的でありたいことの理由は、科学コンプレックスの他に、多くの成果を出したいというのがあります。

そこで、統計研究(量的研究)が行われます。上述の心理物理学ほどの再現性はなくて、「多くの人に当てはまる」という平均値やマジョリティの性質を知ろうとするものです。

多くの人に当てはまる法則を知りたいわけです。マーケティング心理学のように集客が目的の場合はそれでよいでしょう。誰が買ってくれるかはどうでもよくて、何人が買ってくれるかが問題なのですから。

心理学において「科学的」と言われているのは統計研究がなされたという意味であることが多いですが、私はそれを「科学的に証明された」と言うよりは「統計的に証明された」「統計心理学的に証明された」と言うのが誤解がなくてよいかと思います。(参考:エビデンスのある心理療法!?:「多くの人に効果がある」≠「私に効果がある」

その方がその価値が明確になると思います。心のお悩みの克服には「世間がどうかではなくて、自分自身がどうか」といういことが大事になります。あなたにはあなたの良さがある。他の誰かになろうとするのをやめるってことですね。心理学には心理学のよさがある、他の誰か(科学)になろうとするのをやめた方がいいと思います。

心理学の一要素として認知科学や生理学があるといったところが現実的かと思います。

臨床心理学者による事例研究(質的研究)と当事者による当事者研究

人の心については多様性があったり、個別性があります。唯一無二性というものが大事だったりします。当事者研究の方は「私がエビデンスだ」と言います。

20cあたりから始まった人間性心理学などもその流れです。

人を管理するためなら、科学的な心理学が必要でしょう。人が幸せになるためなら、科学的ではない心理学が必要だと思います。この「科学的ではない」というのは、「ひじ掛け椅子の心理学」でもなければ、「根拠のない迷信」「インチキ」のことではなくて、とてもリアルな知見です。「科学的な心理学が人を救う」というのこそ迷信だと思います。

科学はゆっくり後から追いかけてくるものに過ぎないです。

人間性心理学には科学的根拠はありませんが、根拠がないわけではないです。統計しかみないのが科学的心理学で、統計以外もみるのが人間性心理学だと思います。

参考

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※当サイトの事例は原則として複数の情報を参考に一般化/再構成した仮想事例です。

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