心理支援職という肩書や職業に憧れたことはない – 私の心理セラピストとしてのルーツ

心理セラピストは私の大事なアイデンティティですが、実は私は「心理支援職になりたい」と思ったことはありません。

この記事の文章は分かる人にしか分からない内容になってしまうことを承知で、あえて書いてみることにします。

あるところで「心理セラピストになる」と決めましたし、そのように行動しましたし、結果的には心理セラピストであることに自分らしさ(天命のようなもの)を感じています。しかし、心理セラピスト(もしくは心理カウンセラーや心理支援職)という肩書や職業があることを知って、「あ、私それになりたい」と思ったわけではないのです。

心理職になるのには2通りあるように思います。

  • 心理職に憧れて、心理職になるために学んだ。(心理職ありき)
  • 自他の克服のプロセスに触れて、そこから役割を貰った。(当事者ありき)

この2つは重なってゆく部分もあるのですが、やっぱり根っこは異なるなあと感じることもあります。

しかしあえて、この記事では、そのなんだか根っこが異なるような感覚について書いてみたいと思います。

憧れの有無 – 動機の違い

心理職を目指す人に多い動機

「高校生女子のなりたい職業2位が公認心理師」だとかいうのは上述の前者ですね。

また、ある心理系大学院の面接官が言うには、心理職を目指す学生の多くが「〇〇(自分の家族など)が苦しんだときに心理職の人が助けてくれました。私もそんな素晴らしい仕事がしたいと思い臨床心理を志しました」と言うそうです。それも前者かと思います。

心理職になるためにはどうすればよいか調べて、そのための勉強をしました。そして実行に移して与えられたカリキュラムをこなして心理職になります。

そのような方々からすると、心理職を目指したわけでもないのに心理職になったなどという経緯は到底理解できない場合もあるようです。

私の動機と天命

私は心理支援の必要に迫られて心理技術の当事者になりました。その延長で心理セラピストになりました。

そこでは、支援する者と支援される者は同じ世界を共有していて、役割は入れ替わるともありました。

その心理支援は連鎖のようでもありました。助かることと助け合うことは松明リレーのようにリンクしていたのです。

ですから、学ぶ場所や方法を選ぶときに、学位が得られるとか、資格が得られるとかいうことは微塵も考えていませんでした。心理支援を学ぶために、「心理カウンセラーになるためには」という検索をしたことがない、と言えば分かり易いでしょうか。

そこでは心理支援職が存在する以前に、当事者と心理支援がありました。心理支援職がいなくとも、当事者たちは様々な技術を学んで生き延びていました。

まずは当事者とその体験がじつざいしていて、心理支援職は派生的なものでありました。

私たち当事者は心理支援職に活躍してもらうためにトラウマになったわけではないのです。

その違いをもう少し

「ピアノを弾きたい人」と「ピアニストになりたい人」との違いでしょうか。

そこにはピアノがありました。ピアニストという職業がなくてもピアノはありました。

ピアニストになりたくてピアノを習ったのではなくて、ピアノを弾いているうちにピアニストのアイデンティティに目覚めたという感じです。

被災した人たちが助け合って脱出するときに、レスキュー隊に憧れて救助方法を学ぶのではないように。

ただ自他の必要に応えて心理技術を学び、教え合いました。それは生きる術、幸せを探す術だったのです。

「カウンセラーになりたいのですが、どの資格をとればなれますか?」と尋ねたことはありません。「どの講座にいけば良いカウンセリングを学べますか?」と尋ねたことはあるかもしれません。

もちろん前者の方が進路としてはまともです。しかし、私がカウンセリングを受けるなら後者のように学んだ人を選びます。

私たちは単位や学位や資格が欲しかったのではなったのです。自他の悩みをなんとかしたかったのです。なんとかする必要があったのです。

ですから、資格を発行しないセラピスト養成機関や講座で訓練を受けました。そこには本当に困っている人や、本当に誰かを助ける必要のある人たちが学びに来ていました。単位やライセンスを取るために学んでいる人は一人もいませんでした。

私の目的は「心理の専門家になる」ことではなくて、「自分や仲間が助かる/幸せになる」ことでした。今でも根っこはそうなんだと思います。

前者と後者はお互いを取り入れてゆくものだと思いますが、ときどき、それらのルーツの違いによって見ている世界が全く違うと感じることがあります。

世界観の微妙な違い

私にとっての心理セラピーは当事者のための技術であって、専門家のための技術ではありません。

車椅子が高齢者や障碍者のためのツールであって、専門家のためのツールではないように。

心理セラピーは当事者たちが専門家に手伝わせて作ってきたものだという世界観をもっています。(実際には手法によって開発の経緯は異なります)

ですので、事例のクライアントについて畏敬をいだいたり、興味を惹きつけられたりすることはありますが、事例の支援者に憧れるということが殆どないのです。

尊敬する専門家はいますが、当事者ほどには尊敬していません。当事者が地球なら、先生と呼ぶ専門家は月くらいの大きさです。

どのようなルーツであれ、よい知識を学ぼうとする努力へと繋がってゆくことは起きると思います。そこで「よい知識」とは研究によって裏付けのある知識(しばしば「正しい知識」と呼ばれる)のことなのか、クライアントが納得や満足する知識(「実践知」とでもいいますか)なのかによって学ぶことが変わってきます。実際には両方とも学ぶことになると思いますが、心理支援職に憧れて心理支援職になった人たちは「正しい知識」に安心を求める傾向があるように思います。

私にとっては「正しい知識」は大事ですが、月ほどの大きさです。私にとっては、当事者の体験世界はその何倍も大きいです。

デモンストレーション会場にて

心理セラピー講座などで、著名な先生のデモンストレーションを見学することがあります。

そのとき受講者/見学者から、「エレガントなセッションでした」「〇〇先生みたいなセッションをしたい」という感想がよく語られます。講座の司会者から「みなさん、〇〇先生のようなセッションに憧れますよね」と言われていたこともあります。

そんなとき私はちょっと置いていかれる感じがします。私にはそのような「憧れ」がないのです。

私は感想も「今のセッションで起きたことは・・・・」みたいなことを考えます。デモであっても、殆どクライアント側を見ているのです。

※もちろんデモのセラピスト役の先生も全く観ないわけではありません。

そして、「さすが先生ですね」みたいな言葉を聞いて、はっとして「先生の凄さ」に無関心な自分に気づくのです。

私には「憧れ」がない。(;^_^A

人や職に対して憧れがないわけでないつもりですが、油断すると忘れちゃうのです。

クライアントが本当に期待するもの

「セラピーの上手な自分」みたいなイメージも大切だと思います。なんらかの自信はもった方がよいでしょう。

クライアントは凄腕のセラピストを求めてくるわけでもないです。何かを求めてきますが。

その何かを提供できる人という意味で、心理セラピストでありたいとは思います。

でもそれは、カリキュラムで学んでなれるものではないように思います。生き様や在り方だと思います。

憧れなき者の学び

私は最初は参加者として当事者同士で学びました。そこで出会った当事者たちは、本当によく私の回復に役立ちました。その場を設けてくれるコーディネーターとしての専門家も有難いものでした。

私は心理セラピストになってからも、当事者から学びぶことが多かったように思います。自分の当事者体験とは異なる分野について学ぶときも当事者会を見学させてもらったりしていました。

犬恐怖症の相談があれば、自分も実際に犬に噛まれてみようとしました。(真似しちゃだめ!)

私のような上述後者(当事者ありきのルーツ)は「体験してから専門書にあたる」スタイルですから、「正しい知識」が出遅れます。

そんなわけで、知識を入れるための講座も100回以上?参加してきましたが、なかなか網羅的にはならないですね。

その点では、上述前者(心理職ありきのルーツ)のようなシラバスによって学ぶスタイルのほうが知識に大域的な網羅性があります。

オールマイティでなくてよきと思いますが、得意分野じゃないところも広く浅くは知って自分の位置は確かめる必要あると思います。

また、得意分野については、実体験と教科書のズレや一致は確認しておくのがよさそうです。

浅く広くという意味では公認心理師試験もシラバスは役立ちました。合格者の上位3%くらい1の点数を取りました。

私が体験的に知っていることと、教科書の「正しい知識」に齟齬は多くはありませんでした。しかし、公認心理師カリキュラムには当事者から見える世界は殆ど語られておらず、専門家という限られた視野という印象は正直なところありました。

専門書も良いものがあります。でも、体験より先に読まなくてよかったと思います。何を体験しているかで、その意味は大きく変わるからです。教科書は答え合わせに過ぎないと思います。

専門知識をもってしまう前に、ピアの立場から当事者仲間の目をたくさん見ることができてよかったと思います。

クライアントが私をつくった 

私の心理セラピストという仕事をつくったのは、制度でもなく、憧れの対象でもなく、クライアントの言葉の数々だと思います。

クライアントと権威の言葉が食い違ったときは、多くの場合にクライアントが正しいことが後に判りました。少なくともその人にとっては。

本人は気づいていないこと、本人に見えていないこともありますが、それも含めてクライアントから教わりました。

「きっと他にも必要とする人がいますから、セラピーをやめないでくださいね」とは何度も言われました。

そして、上手くいかなかったときは、関係のありそうな専門書や講座などで学びました。専門知識は助けになります。

しかし、「専門書に書いてあるからそれが正解」「エビデンスがあるからそれが正解」とは思いません。カリキュラムはクライアントが作りました。

試行錯誤に付き合わせてしまったところはありますが、教科書通りで上手くいかなかったクライアントからは「あー、これがセラピストだ。やっとセラピストに出会えた」と言われてきました。

ですので、権威筋から認められるというよりは、その人たちにとっての心理セラピストですね。心理セラピストは自分の大切なアイデンティティになったのですが、それは「あのクライアントたちにとっての心理セラピスト」です。

クライアントは「被支援者」ではなくて「当事者」です。

今回は私の心理セラピストとしてのルーツについて思い当たることを書いてみました。

関連動画:

参考リンク:

※当サイトの記事には独自の意見や枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものでもありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。
※プライバシー保護優先のため、当サイトの事例は原則として複数の情報を参考に一般化/再構成した仮想事例です。

\(^o^)/

- protected -