恐怖とか不安というようなものについて、思うことがあります。
たとえば犬恐怖症の場合、犬に噛まれることを自動的に想像していたりします。
そんな人に「噛まないよ」と助言する人がいますが、ちょっと外している感じがします。「噛まれそう」ということと「噛まれたら大変」ということは別のことなんですね。
恐怖や不安を感じている人は、「もし噛まれたら」ということについて感じているのであって、噛まれる確率を心配しているのではないのです。
「飛行機が墜落するかも」という恐怖や不安の場合も、墜落する確率のことではくて、「もし墜落したら」ということが問題なんですね。ですので、墜落する確率が低いですよと言ってもあまり意味がないかもしれないのです。それを言ってしまったらもともことないのですが、当事者にしたらそんな感じなのではないでしょうか。
恐怖症のセラピーでは、「大丈夫」を体験してもらうもの(系統的脱感作法、曝露法など)があります。
そこで、何がどう大丈夫なのかが重要だと思います。
犬は実際に噛むことがありますね。それなのに「噛まないよ」というイメージトレーニングでよいのでしょうか? 「犬のぬいぐるみ」や「犬の写真」が恐いということであれば、「噛まないよ」というアプローチはよいかもしれません。ぬいぐるみや写真は噛みませんから。
本来恐くないはずのものが恐いのは恐怖症ということで、近づくアプローチもよいかもしれません。しかし、トラウマの場合は、それとは違う感じがします。たとえば、犬に噛まれてパニックになったとき人は自分の味方でいてくれるだろうかというようなこと、見捨てられないかというようなことが関係している場合があります。そのような場合は「犬に噛まれたとき恐がってもいいよ」「恐がっても見捨てられないよ」というイメージワークが効いたりもします。
性暴力被害者(女性)が男性恐怖症になったとき、男性に近づく練習をさせるような曝露法でよいのでしょうか? 男性に近づけるようになることよりも大切なことがあるように思います。概ね回復してきた頃には男性に近づく暴露もよかったりすると思いますが、早い段階だと上手くいかないようです。近づいても大丈夫の「大丈夫」とはどういうことなのか明らかになっていないからだと思います。
恐怖症のセラピーが上手くいかなかったという話を聞くとき、何がその人にとっての「大丈夫」なのかが置き去りにされているように感じることがあります。