- ゲスト いりや
- 哲学・ジェンダー・セクシャリティを専門としている研究者で、マイノリティ当事者。専門誌への寄稿や講演多数。
- ラジオ・パーソナリティ Kojun
- 心理セラピストで、マイノリティ当事者。
2021年5月放送
(音声は「通常ページ」のみで公開)
Kojun 今日のゲストは いりや さんです。こんばんは。
いりや こんばんは。今日はお招きいただきありがとうございます。文章書いたりとか、いろいろなところで講演なんかをしているイリヤです。
Kojun 今日は「生きやすさ」について話したいんだけど、研究者でもあって当事者でもある人に話を聴いてみたかったんです。
「生きやすさ」って何?
Kojun 心理セラピーでは「生きずらさ」をよく扱うのだけど、最近は「生きずらさの解消」と「生きやすさ」がイコールではないことが多いように思う。「生きやすさ」って何なんでしょう?
いりや すごく難しいテーマなんですけど、「生きやすさ」って抽象的なことではなくて、それぞれの人のストーリーがあるんじゃないかなと思う。
Kojun ストーリがあるっていうのが面白いですね。状態みたいなものを思い浮かべやすいんですけど、もうちょっとダイナミックなもの? 経緯みたいなものも含む?
いりや 血圧が下がってとか、そういうことじゃないんだろうなと。
Kojun 生きずらいの解消も、どういうふうに解消したかとか、生きづらかった過去もあるよねっていうことも大事なような。ただ、なかったことになるような感じではなくて、どう通り抜けたかってことも「生きやすさ」に関係している?
いりや そうですね、そう思います。それに、生きづらいって感じていることをどこまで言葉にできたかとか、自分の人生にどこまで落とし込めるか大事だと思う。政治が悪いとか言ってても日常からかけ離れちゃう。生きづらさを自分の言葉で自分なりに話せるってことがあってはじめて、これが自分なりの生きやすさかなあって分かるのかな。
Kojun そうか、そうか、面白い。聴いてみたかったことが、さっそく聞けてとても嬉しい。
いりや ぼくも・・・感じたことを喋ってる。
Kojun しかも、なんか希望を感じる生きやすと生きづらさは別の話だと言い切るのも抵抗があったんですよ。悩みの相談者の方って、悩みを解決したがらないっていうのがあるんですよ。いろいろあるんだけど、総じて言うと、苦しかったときのことをただ消せばいいってものじゃない、その人なりの大事なものがあるような気がしていて、それを持っていかないといけない・・・
いりや やっぱり切り離せない。たぶん、ゼロにすることではない。
Kojun 切り離さない。なんかすごい大事な感じがする。そうるすと、生きやすさってなんだろう?
いりや あ、いま話してて感じているのは、それぞれの文脈があるんで、完全に理解できないのだけど、シェアできる場所があるのは大切なのかなあって思う。
Kojun 「ないこにしない」ってのは「あることにする」ってことなんだけど、それは聴いてもらえるってことだったり、するのかな。過去もちゃんと存在させてもらう感じなのかも。一人の世界ではつかみどころがないのだけど、人に話せるようになって、それがある程度分かり合えるみたいなのが生きやすさ?
いりや 話しやすい環境、
Kojun うん、それが居場所。この番組名では「隠れ家」って言ってるし、昨今いろんなところで「居場所」って言われているのだけど、それってそういうことなのかもですね。
いりや 自分の存在を感じられる場所・・・かな。
Kojun なんかちょっとヒントが見えてきた。
マイノリティの存在
Kojun マイノリティとか弱者が効率とか生産性とかいったときに、社会の隅っこにやられるのが現実だと思うのだけど、倫理的な意味じゃなくて存在価値があるような気がするこの頃なんです。それも関係あるかな・・・
いりや 人ってマジョリティであっても、どこかでマイノリティだと思う。
両面性をもっていて、生きずらさをそれぞれの文脈で
マイノリティということと繋がっていると思う。
マイノリティが存在しない、マイノリティがここにいるよって言えない社会になってしまうと、だれも生きづらさを話せない社会になるかなあ。
Kojun マイノリティが存在できる社会はほんどの人が存在しやすい社会。
いりや だれもが生きづらさをシェアできる社会になってゆくのかなあって思う。
Kojun なるほど、私が思ってた「マイノリティが存在するほうがいいんじゃないかな」っていう感覚は・・・・。後半はちょっとだけ切口変えて話したいと思います。
生きやすさを手に入れるためには?
Kojun いりやさんと話したいもうひとつは、「生きやすさを手に入れるためには、なにができるんだろう?」ってことなんですけど。なにができますか? おしえて。(笑)
いりや (笑)
たった一人だど
ネットワークを広げると生きやすくなるかな。
Kojun 複数の繋がり先があったりするといいってことか。「居場所」っていうのとほぼ同じ?
いりや そうですね。僕のなかでは、自分がいてよかったんだ。気軽に行ってもいいし、行かなくても背徳感を感じない。義務的に行かなければいけない場所ではなくて、出入りができることとか、
その空間の中では話してもいいし、話さなくても「あー今日自分はここに居られたな」と思える場所。
Kojun いわゆるコミュニティって言われているものが、一緒でないといけない感じがあったりして、コミュニティが苦手って人がいま多い気がじがする。コミュニティが居場所ではないことがあるのものかもしれない。
いりや コミュニティになってしまうと、上下関係とか歴史ができてしまう。そこにルールがあったりするのは、それは大切なものかもしれないけど、入りづらいことがある。落着ける場所じゃない。
Kojun なんか、10人とか100人とかいるのがコミュニティだとすると、
居場所っていうのはもっと1対1がいっぱいあるとか、3人組がいっぱいあるとかが居場所で、全体ってものが意味をもっていなくて・・・そんな気がしてきたな。
生きやすさのためには、そういうもの、ネットワーク的なものをつくるといいて感じなのかなあ。こうするといいってのはないかもだけど。
いりや 正解はないかも。顔が見えるかたちで、生きづらさを喋る、自分をさらけ出すことを考えると、形式ばった〇〇〇コミュニティとかだと普段と変わらないのかな。
Kojun そうですね、グループやコミュニティは人数に重きをおきがちだけど、人数が増えるとさらけ出しやすさは減ってゆくよね。増えすぎない人の集まりも大事?
で、「(生きやすさのために)何ができる?」ていう意味でいうと、何ができるんでしょうね?
いりや 生きづらいってリアルに感じすぎてて、「現在」しかみえてない。
だから逆に言うと、生きづらさを語る、「私はこれまで・・・・こういう経験をしてきました」みたいな、
いましんどいとなかなか難しいと思うけど、そこから距離をおいて、「生きづらさ」から「生きやすさ」に変わらなくても、「その自分の生きづらさって、どういうところで自分の人生とどう関わってるのかなあ」って・・・・(音声不明瞭)
Kojun 心の分野だと、その距離をおくことを「脱センタリング」とか「外在化」って言うんだけど、どっぷり今の生きづらさと自分が一体化している状態だと、いろいろ難しいんですね。それを・・・ちょっと傍観するように眺めたときに、いろんな可能性が出てくる感じ。
いりや 自分との内面的な距離感が・・・(音声不明瞭)
Kojun なんか自分との内面的な距離感というのは、それはたしかに自分で出来ることのような気がしますね。こうあるべきということではなくて、実際に出来ることが知りたいんだけど。それは簡単だとは言わないけど、いつでもどんなときでも出来ることのような気がする。
「今」っていうどっぷり入った状態から、過去のことを語れるくらいの距離感をもつ・・・。それは実体験の中で感じてきたことなんですか?
いりや そうですね、短い人生のなかで感じていることです。
(中略)
いりや
「こういう場所もあるんだよ」「こういう生き方もありうるよ」って示すためにいるのかなって。こっちに言ったら自分は社会的にダメなのかなって思っても「この人がいるじゃん」って思える。自分はこの世界に居場所があり得るんだって。
Kojun 「いろいろあるよ」って示すモデル?
・・・おっと、そろそろ時間になってしまいました。