アンダーグランドの魅力は、説教のない世界。「するな」とか「しなよ」とかがない。セリフとしてはあるけど、冗談。それが冗談になるのは、人を正すことができるとは考えていないから。
マツコさんみたいなのが説教してくれる店は、周辺の観光地であって、アンダーグランドではない。
説教される心配なく、正される心配なく、開いている。
一方で、人の嫌がることをしないということは地上よりも徹底していたりする。常識が守ってくれない分、多少の危険もあるけど、だからこそ。
これはワークショップなんかで言われている「安全な場づくり」にとても似ている。というか、原理は同じなのでしょう。
アンダーグランドという言葉のニュアンスのひとつは、安全な地下に隠れているというもの。本音とか、非常識とか、地上で批判の対象となる罪なきあるがままの隠れ家。
アンダーグランドという言葉のニュアンスのもう一つは、見えないということ。理解できない何かがいるところです。理解できないものを理解できないものとして受け入れる在り方の世界。
それは、フリーク(奇人変人)が赦される場ではあるけど、フリークショーではない。
観光地は、観光客がフリークを求める。自分はせずに、フリークが枠を超えるのを観て楽しむ。フリークを否定しない自分に酔い、自分が開放しているような錯覚を楽しむ。
だから、観光客はフリークに、「もっと自分を開放しなよ」と言ったりします。フリークを否定はしないが、もっとフリークになれと要求する。応援しているつもりだが、一種の差別。
差別感や見下しの人は、「応援」は相手の変化を期待することだと思っています。
アンダーグランドは、自分が枠を超える場。他人に枠を超えるのを求めない。
安全なワークショップも、参加者に開放を求めない。開放できる場を提供します。
私の講座では、あえて参加者に開放やチャレンジを勧めたいと思います。でも私は観光客ではありません。自分ができないことを人にやらせて自分がやったような錯覚を楽しむ観光客ではありません。
一昨年あたりから、協会ビジネスの流行りと共にか、自分はクライアント体験を拒むセラピストが増えている。そこでは、セラピストは観光客、クライアントはフリーク。そこは観光地ですよ。
ワークショップもね、資格とってファシリするなら、参加者体験もね。参加者として涙腺ゆるめない人が、自分のワークショップの参加者が涙腺ゆるめているのを見て、いいワークショップができたと喜んでるのは観光客によく似てる。そこは観光地ですよ。
ワークショップファシリの資格をとることが、フリークから観光客に昇格することになっていませんか?
そんな時流の中、一方で、講座にくる人たちが「まずは自分を開放しないと」と言うことが多い。そんな受講者さんたちにとって、支援とは、自分を耕すこと、らしい。