Kojunはいわゆるショック・トラウマの他に、アダルトチルドレン(AC)の悩みを広義トラウマと呼ぶことがあります。トラウマがその全てではありませんが。
※「広義」とつけるのは、診断名PTSDに限定しないという意味です。
ここでは医学的な診断基準や学術的な権威ある定義の説明ではなく、私の考え方を三校として述べています。
なれる
「慣れる」ことが解決法になるか
暴露的なアプローチが成立しそうな場合に恐怖症と見立てています。
たとえば、新社会人が会社にかかってきた電話をとることを恐がることがあります。オフィス職場で新人さんの電話恐怖症と呼ばれたりします。
おおくの場合にこれは慣れていないことが原因なので、案ずるより産むが易し、電話をとることに慣れれば解消してゆきます。
しかし、過去に恐ろしい知らせを電話で受けたことがあるなどの場合は、慣れるアプローチが機能しないことがあります。
よく対人支援の方も「慣れてゆきましょう。筋トレみたいなものです」と応援しますが、それが適さない場合もあるということです。
間違った努力を続けないためにこの区別は大切です。間違いを責める必要はありませんが。
過去になにかあったかどうかというよりも、慣れるアプローチが使えるかどうかという観点です。過去になにかあったとしても、慣れて解消できるなら(その部分は)恐怖症と捉えます。
※ただし、記憶への暴露(思いだすことに慣れる)、自己主張への暴露(嫌なことは嫌と言うことに慣れる)はトラウマのセラピーにも含まれます。
この観点でのトラウマと恐怖症の混ざったようなケースももちろんあります。実際にはトラウマのセラピーの仕上げとして恐怖症のワークをすることもあります。あえて恐怖症のワークを少しやってみて、トラウマのテーマを明らかにすることもあります。
トラウマと過去
トラウマというと、一般的には過去の出来事に要因があるという意味でつかわれる言葉かと思います。出来事は瞬発的なものも、継続的な体験もあります。どちらにしても「過去」が関係している。
司法的な意味なら因果関係ということになりますが、心理セラピーでは原因がどうかはあまり問題にしません。
アドラー心理学では、トラウマは存在せず、過去の出来事に対してトラウマという意味づけをしているにすぎないと言います。これは自己啓発系の人たちにとても人気のある考え方ですが、「自分は過去を避けてきた」と気づいて回復する人たちも見てきました。
※「過去から避ける」というと悪いことのように聞こえますが、安心の基盤ができていない段階では蓋をすることは必要なことでもあります。
では、Kojunは過去に悩みの原因をみつけようとしているのかというと、違います。
心理セラピーと過去
Kojunの心理セラピーでは、どのようにすれば悩みが解決するかに興味を持ちます。
その観点で言うと、トラウマとは「過去の出来事を扱うことで解決しそうなお悩み」と定義できると思います。
※ただし、過去を扱うのは準備(安心の土台)ができてからです。なので、準備が出来ていない場合はトラウマと呼ばないこともあります。しかし、「慣れましょう」アプローチが上手くいきそうにないと言う意味でトラウマ(または、「恐怖症ではない」)と言ったりもします。ちょっとややこしい。
また先述のように、過去になにかあつまたとしても過去を扱う必要がなければトラウマと呼ばなくてもよいかもしれません。
目的論による定義ですね。目的論だけど過去を重視するわけです。
「過去の出来事が原因となっているお悩み」ではありません。
たとえば、認知療法や暴露法(行動療法)は原体験まで過去に遡らなくても、最近の感情や思考、今日の行動を扱うことで成果が出ます。つまり過去を扱わない手法です。
そのような手法で解決する悩みは、たとえ過去の体験によって生じていたとしても、トラウマとは呼ぶ必要がないとうことです。
※医学的診断のことではありません。セラピーでの方針決めの意味です。
※他人に配慮を求めて説明する場合は、原因論で「トラウマ」と言う必要があるかもしれません。
それに対して、過去の記憶に触れることが必要なケースというのがあります。そのように見立てた悩みはトラウマと呼んでいます。
たとえば、犬に噛まれて犬が苦手になったとしても、行動療法(犬に近づく練習とか)で悩みが解消するなら、それはトラウマではなく恐怖症として扱います。もし、噛まれた当時の様子(誰も助けてくれなかったこととか、笑われたこととかが本質的なテーマである場合)を扱う必要があればトラウマとして扱うことになります。
つまり、トラウマとは、過去がまだ完了していないということです。
認知行動療法をベースとする療法であっても、PTSDに効果ありとされるPEやCPTなどは、過去の記憶を扱います。
具体例
たとえば、「人に嫌われるのが恐い」というお悩みだったとします。
人の集まりに参加したり、好かれたり嫌われたりする経験をして慣れること(行動療法)で解決しそうなら、トラウマと呼ばなくてよいでしょう。
「すべての人に好かれなくてもよい」とか「嫌われても困ることはあまりない」というように物事の捉え方を修正(認知療法)して解決しそうなら、トラウマと呼ばなくてよいでしょう。
※トラウマから回復した結果として認知が変化することはありますが、それは認知療法とは区別します。
※「自分が悪い人間、価値のない人間だからあんなことが起きたのだ」というような罪悪感をターゲットに修正する認知療法アプローチは必要性があります。
しかし、それらでは解決しない感情パターンや行動パターンがある場合は、過去の原体験の記憶を扱うと解消することがあります。
そのような場合は、過去を扱ってみるぞ、と言う意味でトラウマと見立てます。
Kojunは、誰かを責めるためではなく、解決法を選ぶためにトラウマという概念を使います。
アダルトチルドレンも過去の原体験を扱う必要を示唆する意味では広義トラウマを持つと考えます。
つまり、トラウマとは自分の不幸を説明するためのものでもなく(ここはアドラー心理学に賛成)、意味づけに過ぎない手放すべき解釈でもなく(ここはアドラー心理学に異論)、解決のための戦略的な見立てであるとKojunは考えています。
変わりたくない
不幸の理由を教えてくれる原因論も、アドラー心理学の原因否定型目的論も、分析者の視点だと思います。Kojunは当事者の視点で捉えます。
Kojunも「変わりたくない人」をたくさん見てきたので、「変われるのに変わる勇気がない」とアドラーが言いたくなるのも分かります。そんなブログ記事も過去に書いていたかもしれません。
でも、変わりたくない人は、原因論も言い訳に使えますが、アドラー心理学の目的論も言い訳に使えます。
「私は虐待を受けたから愛着障害なのはなのはしかたない」とも言えますし、「過去を振り返ってはいけない、だから愛着障害の克服に取り組む必要はない」とも言えます。解決法があることを知らない人は原因論の言い訳を、解決法があることを知ってしまった人は目的論の言い訳をすることができます。
変わりたくない自分と、変わろうとしている自分というのがいて、どちらも大切にしようというのが現在のKojunの考えです。
変わろうとしない
たとえば、性暴力被害をきっかけに楽しい恋愛ができなくなっているという人に対して、「あなたは楽しい恋愛をしないという決断をしているのです。そしてそのために、性暴力被害トラウマという意味づけを自らしているのです」などとは言わないほうがよいと思います。
正しいとしても、言わないほうがいい。せっかくその人なりに一歩一歩できることをしようとしているのに、くじかれてしまいます。場合によっては二次被害(セカンドレイプ)の傷を受けます。
性暴力被害トラウマの人も、克服プロセスに躊躇することはよくあります。勇気が必要? あたりまえでしょう。相談に来ているだけでも十分に勇気があります。
※「正しいとしても」というのは、たしかにクライアントさんは「トラウマ」という概念の奥に、もっと大切で触れがたいものを持っていることがあります。しかし、「トラウマだから」という仮の因果律を捨てるよりも、その仮の因果律を使うほうが心理セラピーにも辿り着くし、真実やPTGに近づけることもあるでしょう。
勇気が必要というのは、治療者と当事者の歩調があっていないって言っているだけでしょう。
ご自身がその勇気とやらを実践している人は役に立ちますが、そういう人は言うより見せます。
ただ、トラウマという意味づけを煽っている発信者やコンテンツはありますので、それについてはアドラー心理学の批判は当たるように思います。
専門家が不用意に「あなたのそれはトラウマですよ」とか「あなたは愛着障害でしょう」とか言うのも、あまりよくない影響がありえます。そのあたりはアドラー心理学に一理あるように思います。
クライアントさんたちは、起きていること全てトラウマのせいにしているのではなく、自分の生き方次第と受け止めて、幸せを選んだうえで、それでもどうしようもないことについて相談に来ます。
幸せになろうと思っていなかったら心理セラピーなんかしに来ませんから。意志でなんとかなることは、とっくにやってます。心理セラピストはその先を手伝うのだと思います。
トラウマだけではないケース
アダルトチルドレンが持つお悩みの中でも、大人の愛着不安定(愛着障害)や境界性パーソナリティなどは、トラウマと呼ばないことが多いです。トラウマを含むことはよくありますが、中心テーマは原体験というよりは、何かが得られなかったことでありがちだからです。過去を完了するだけだは解決しないことが多いように思います。