心理現象の「シャドウ投影(影の投影)」についておさらいです。
ここでの定義は、自分の中に隠しているものが、他人に投影されて見えることとします。
投影されて見えているもの(嫌いな相手のイメージなど)「シャドウ投影」が単に「シャドウ(影)」と呼ばれることもあります。鏡に映った「顔の鏡像」を見るとき単に「自分の顔を見る」と言うように、「あなたが見ているのはあなたのシャドウかもしれない」と言うほうが実践的かもしれません。実際に見えるのはシャドウ投影であって、シャドウは見えないので。
このブログでは、内にある投影の元(劣等感や怖れ、避けていること)が見えなくなっている現象を「闇」と呼んでいます。
簡単なシャドウ投影の例
たとえば、「俺は強いぞ」というスタンスで生きている人は、弱そうな人を批判したり、変えたくなったりします。
その「弱そうな人」が、その人にとってのシャドウ投影です。
「俺は強いぞ」さんは、「俺は弱い」ということへの怖れを持っています。だから、強い自分を作って生きてきました。
簡単に言うと、「弱い」ということが怖いのです。「弱さ」恐怖症。
それは弱い自分をないことにするための努力です。「ないことにしている」というのは、心理では「抑圧」ともいいます。「ないことにしている」と「ない」は違いますが、本人は「ない」と思っています。
ないことにするために、弱い自分への否定・批判という力が深層心理(本人が自覚できない)にあります。「弱さ」を取り締まるポリスがいるんですね。
それが、あるので「弱そうな人」に対して否定・批判の反応が出てきます。
※行動レベルでは、なんだかマスク警察に似てますね。
さらに言うと、投影(深層心理にあるものが、見たものの解釈へ影響する)というものが働き、「弱そうな人(声が小さい、おとなしい、ケンカをかわない、慎重などなど)」が「弱い人」に見えます。
自分の弱さをを怖れている人が、自分の弱さを認めている人を罵倒するということも起こります。
「なんとか変えてやろう」と思って、追い詰めようとします。
しかし、弱さを認めている人は、自分の弱さを怖れていないので、根本的にはその脅しが効きません。
人間は影を怖れるが影を手放せない
そして、弱い人を否定するくせに、自分より(立場が)弱い人(目下、接客者、新人など)を必要とします。
本当の「強い」人はそんなことはしませんが、「俺は強いぞ」さんは「弱さを怖れる人」ですから。
影はついてきますものね。光を当てるまで。
ここでは「シャドウ」と「シャドウ投影」の区別は曖昧になります。
克服する人も「俺は強いぞ」さんのシャドウになる
心の悩みを克服する人は、人間の弱さを受容する感性をもつことになります。それは「弱くてもいいじゃん」のような態度を含みます。
そうすると、「俺は強いぞ」さんに絡まれることがあります。「弱そうな人」または「弱そうな人をゆるす人」として。
その他のシャドウ投影
「俺は強いぞ」さんの他にもいろいろあります。
「明るくなければいけない」さんのシャドウ投影は「暗いやつ」、「努力すべき」さんのシャドウ投影は「頑張らないやつ」、「苦しむことが正義だ」さんのシャドウ投影は「気楽なやつ」、「几帳面にしなきゃ」さんのシャドウ投影は「いい加減なやつ」などなど。
「暗さをまとってないと足をすくわれそう」さんのシャドウ投影は「明るいやつ、バッカみたい」、「頑張ったら負け」さんのシャドウ投影は「頑張ってるやつ」、「気楽なふりをしていないと生きていけない」さんのシャドウ投影は「苦しそうにするやつ」、「いい加減に振舞うことでしか自由になれなかった」さんのシャドウ投影は「几帳面なやつ」。
ただ明るい人が他人に「お前は暗いな」と批判することはありませんが、「明るくなければいけない」さんは他人に「お前は暗いな」と批判します。
もしそうなら、それは性格が明るいのではなくて、暗くなるのを怖れているのかもしれません。
あなたは何を怖れていますか?
嫌いな人が全てシャドウ投影とは限らない
「嫌いな人はあなたのシャドウ投影です」なんて説明があります。でも、正確には「嫌いな人はあなたのシャドウ投影かもしれません」ってとこでしょう。
シャドウ投影先となるのは、自分がやらないようにしている何かをしてしまっている人であったりします。「生きられなかった自分」なんて言い方もされますね。
たとえば、肩を揉んでくるセクハラ上司が嫌いなのは、セクハラが嫌だからであって、シャドウ投影だからではないでしょう。
聴覚過敏の人にとって大声の人が苦手なのも、シャドウ投影だからではないでしょう。
自分にちょっと似てるから苦手なのは、シャドウかもしれませんね。
自分と正反対である場合もあります。
影って、自分と似ていて、自分と反対ですものね。
シャドウワーク
シャドウ投影に気づいてゆくことで、それはシャドウ投影ではなくなってゆきます。
影は光を当てると消えますもんね。影の投影(シャドウ投影)もそんなところがあるようです。
「俺が弱っちい人が嫌いなのは、自分が弱さを怖れているからだな」と気づくとか、あるいは他者視点で事実に触れてゆくこととか、そのようなワークは総じてシャドウワークと呼ばれます。
たとえば、相手の立場になってみるワークとか、相手にに対する嫌な気持ちを喋って録音して聞いてみるとか。
ただ、上に述べたように、嫌いな人が全てシャドウ投影ではありませんので、「シャドウ投影かも?」「自分のシャドウを見ているのかも」とゆるく掴んでみないと始まりません。
克服のメリット
シャドウ投影を克服すると、罪なき人たちを攻撃する必要がなくなります。他人事にエネルギーを消費することも減ります。
商売をされているなら、シャドウへの攻撃ではなく、顧客ベネフィットに集中できるようになります。
また、振る舞いの選択肢が増えて、自分の生き方が自由になります。
つまり、人と喧嘩しにくくなり、自分を自由にしてくれるわけです。
ただし、克服は怖れとの闘いです。心理セラピストの助けを借りることもあります。
親への反感についても、シャドウ投影である場合と、そうでない場合があるでしょう。ただ、いずれにしても他人より厄介です。シャドウワークは他人で入門するのがよいでしょう。
シャドウの克服は2つの闘い
シャドウは「生き残れなかった自分」と表現されますが、人が心の旅に挑戦するセラピー現場から言うと、「自分の中の怖れが、他人の見え方をつくっている」というのが当事者の体験に近いかと思います。
シャドウを他人ごとではなく自分事として解決してゆくと、他人のシャドウの投影先になりやすくなるという側面もあるということになります。
遊びグループから抜け出して真面目になろうとすると、遊びグループの悪友からは嫌われます。「克服への旅立ち、おめでとう」とはなかなか言ってもらえません。(マイケルジャクソンの「Who’s Bad」のドラマ参照)
心の旅に挑戦すると、自分がつくりだすシャドウ投影と、他人がつくりだすシャドウ投影と、両方と闘う(もちろん喧嘩ではない)ことになります。