心理支援職におけるイニシエーションの危険性

大学で心理学を学ばずに心理職になることを批判する人があります。また、大学で学ばずに資格をとる人たちを許せないと言う人もいます(公認心理師Gルート批判など)。もちろん批判している多くは、大学で臨床心理を学んでいる人たちです。まあ、一部の人たちらしいですけど。

似たようなこととしては、心理職が社会的に認められることに医師たちは反対してきました。[1]最近はそうでもない医師たちも増えているようです。かつて医師から心理士がされていたことを心理士がしはじめたとも言えます。

かく言う私もGルート批判する人と思われたことあります。いや、少ししてます。

「調理師免許のない人が料理人を名乗るな」とか「レストランで下積みしてない人が料理人を名乗るな」とか言う料理人がいたら恥ずかしいですね。しかし、最近の心理業界はそんな気配。

心理業界が蹴落とし思想になっていることを悲しく思います。

ここでは大学で学ぶ人たちへの期待を込めた警鐘のように書きますが、実は大学外の在野でも似たような足の引っ張り合いはありました。ですから、これは大学ルートの人たちに限ったテーマではないのだろうとも思います。

「高度な知識のない者が人の心を扱うことは危険だ」と言いますが、それは多くの場合、後付けの理屈(本当の理由ではない)だろうと思います。

大学院卒だろうがベテランだろうが、間違いないなんてことはありません。でも、それは当たり前のことだと思います。心理支援は上手くいったり、上手くいかなかったりしますから。

この度、国家資格の移行措置によって、試験勉強=ほぼ暗記知識だけの人たちも大量に国家資格を得たということは、ある程度は事実だろうと思います。(それでも、試験勉強をきっかけに実務が改善された人は多くいます)

しかし、そうだとしても、ここでは非難する側の蹴落とし思想について自覚してほしいと思います。

それが出来ないなら知識だけの試験合格者と大してかわらないです。

かつての臨床心理士(学歴もある有資格者)たちはそんなに心狭くありませんでした。臨床心理士ではない心理カウンセラーたちを否定することなどなく、快くその相談にものって彼らの足りないところを補っていました。さすが臨床心理士です。国家資格ができるまでは。

それに対して、大学で学んでいないというだけでその人を許せなくなるという声には、心の罠が感じられます。

心理のプロはそのような罠に自覚ができることが必須ではないかと思います。「そんなことわかっとるわー」と言われそうですが。

心理職に必須の内省能力がない、知識だけの心理職が急増しているように思います。大学で学んだ人たちも、そうでない人たちもです。

(これは大学に限ったことではなくて、在野でも起きています。セラピーを受ける体験を避けてセラピーする側になろうとする人たちが増えていることなど)

蹴落とし思想の罠と癒し

蹴落とし思想の罠というのは、要するに、それは非難する相手の問題のようでいて、実は非難する側の心の問題であるということです。その説明は認知的不協和という概念で後述します。

要するに、本人は正義のためだと思っているのですが、実は自分の影と闘っているということ。

というと、「蹴落としの罠にはまることはけしからんから、やめろ」と言っているように思われるかもしれません。しかし、心理のプロなら次のように気づくはずです。

「蹴落とし思想の罠にはまらない」ということは、「蹴落とし思想の罠にはまっている自分を許す」ということによって達成されます。

「蹴落とし思想の罠から抜け出せない」ということは、「蹴落とし思想の罠にはまっている自分なんて許せない」ということの裏返しとして起こります。

私が大学で臨床心理を学ぶ人たちに言いたいのは、「蹴落とし思想の罠にはまるな」ではなく、「蹴落とし思想の罠にはまる自分を自覚し、そんな自分を許し、癒せ。そうすることで、無益な防衛反応から自由になれ」ということです。

カウンセリングの仕事に就いたら、それと同じ挑戦をする相談者たちと出会います。その人たちから「先生」と呼ばれて伴走することになるのですよ。

仮に学歴不足の心理職者たちに落ち度があったとしても、それを避難する人でなく、救う人になって欲しいと思います。なんせ院卒の有資格者は国内でも権威のある立場になるのですから。それが出来ないようでは在野のあやしいカリスマに負けてます。

心理支援におけるイニシエーション

イニシエーションと呼ぶのは、課程に含まれる辛い体験のことです。たとえば、カウンセリング実習やスーパービジョンで教授にダメ出しされるというような体験。医師がインターンでしごかれるとかも、そうかもしれません。

それらのイニシエーションが理不尽であるほど、認知的不協和を引き起こします。つまり、その辛い体験が役に立っていないと思うことに人の心は耐えられないということ。

ですから、「あの辛い体験があったから、自分は心理の専門家になれたのだ」という思い込みが作られます。これを認知的不協和の解消といいます。

その辛いトレーニングや学習が本当に役に立ったのであれば、認知的不協和は起きません。「あれは辛かったけど、ためになったなあ」となります。人を蹴落とす必要は生じません。これは、イニシエーションではなく「ためになった苦労」ということになるでしょう。

区別が難しいですよね。でも、区別する方法があります。(後述のチェックポイントもご参考に)

「あの人たちは私と同じ苦労をしていないから」が起点となるなら、認知的不協和である可能性は高いでしょう。

「あの人たち」を自分と同じルートではないということでひとくくりにするのも特徴です。外集団差別といいますよね。

かつての臨床心理士たちが、臨床心理士でない心理カウンセラーを叩かなかったのは、認知的不協和が起きていなかったからでしょう。すなわち、彼らには実力と自信があったのです。

これを克服するのは難しいと思います。在野の私でも、同業者たちの活動を見てると怒りが込み上げることがありました。私は傷ついたり恐い思いをしたりしながらセラピストとしての覚悟を育ててきたので、お気軽にカウンセラーを名乗る人たちが偽物に見えたのです。彼らを見下しながら、なぜか彼らを怖れていたのです。

苦しみ抜いた末に、多様な心理支援者の経験や知識の総動員が人を助けると思えるようになりました。「理不尽なイニシエーション」を手放し「ためになる苦労」を大切にし始めました。

認知的不協和は専門家の質を下げる

認知的不協和は、感情を偽の論理にすり替えます。心理師の科学者たれ、実践家たれに反するわけです。

論理を間違えるという意味では科学者ではありません。自分と向き合うことを避けているかぎり実践家でもありません。

※単なる感情ではなくて「罠」と呼ぶのは、そのためです。たとえば、「Gルート制度への批判」が「Gルート受験者への批判」にすり替わったりします。「闇」とはそういうものです。

ですから、現任者Gルートの人たちを援護したいとかいうよりも、大学ルートの心理師たちの質の確保のために、ぜひ、「蹴落とし思想の罠」と向き合っていただきたいと思うのです。

スーパービジョンに慣れていない先生は、ついダメ出しをしてしまいます。「厳しくぶちまければよく育つ」と勘違いするのです。これはあるあるなので、殆どの指導者が通る道かもしれません。しかし、心理支援は怖れとの闘いなので、恐怖では良い心理支援者は育たないでしょう。

サーカスの空中ブランコの訓練は、まず安全に落ちる練習から始めます。

大学での臨床心理教育は、まだ実習もしていないか、ダメ出しレベルの指導が多いそうです。公開処刑のようなスーパービジョンで怒鳴って教える教授もいるそうです。

このダメ出しスーパービジョンは必要以上に人を傷つけるため、前述の「理不尽な辛い体験」すなわちイニシエーションとなりやすく、蹴落とし思想の心理師を大量に生み出すことになると懸念します。

ただ、これについては、たんなるスキルという側面もあるので、大学の実習教育も数年でレベルアップするのではないかと思います。

先にも述べましたが、理不尽ではない、納得感のある体験であれば、蹴落とし思想にはなりにくいです。「ためになる苦労」は他者を蹴落とさなくても報われる(認知的不協和でなくなる)ので。

よい先生たちはいますので、大学教育はこれからじわじわと改善されてゆくだろうと期待します。

心理職と自己一致

また、イニシエーション等によって生じる「蹴落としの罠」は典型的な自己不一致でしょう。これが生じているということは、大学ではあまり教えられていないようですね。自己一致に挑戦できることは心理職の重要コンピテンシーですが、自己一致はしろと言われてするものではありません。単位を取るためにするものでもありません。自己一致できる人と出会うことで得られるものです。カリキュラムで学ぶものではないのでしょう。外発的動機づけが効かないですから。

でも、心理学の知識よりも重要ではないでしょうか。自己一致している人が知識を与えるのは比較的容易ですが、知識のある人が自己不一致を解消するのはとても難しいです。「専門知識が人を救う」というのが厚労省や大学の考えのようですが、あなたはどう思いますか?

人間は、生きている限り心理的に変容する。(中略)その意味で、成長とは常に自分自身の未熟さに向き合い続ける厳しい過程でもある。その中で心理職は、専門性をもって、生きた人間関係を築き、その関係により、関わるその相手が自らよい人生を生きてゆく手伝いをする専門家なのである。

『心理職の専門性-公認心理師の職責』第一章 吉川眞理

チェックポイント

「ためになる苦労」と「理不尽なイニシエーション」の区別は難しいかもしれませんが、罠から抜け出す体験をすると区別できるようになります。これ自体がためになる苦労ですね。

「苦労したかから成長した」を「悩んでよく考えたから成長した」に言い換えることができるか。

「大学で学んでいない人はダメだ」を「私は大学で学んだから〇〇が出来る」に言い換えることができるか。

他人に自分と同じイニシエーションを求めていないかどうか。

学びの足りないと思える心理職がいたときに、助けたくなるか、排除したくなるか。

レベルが低い者の存在を怖れる必要はありません。大学で学んだことが実力に結びついているのであれば、Gルートだらけの今の公認心理師業界に圧倒的な実力者としてデビューできます。幸先よいですね。なのに喜べないとしたら、どうすれば自信を持てるのか。

履歴書書やプロフに「○○大学臨床心理学専攻」とドーンと書けるか。資格よりもそれをメインにできるか。

「ユーザーが騙されるのが見てられない」というのは本心でしょうか? 自分のこれを見抜けるようになることが最も心理支援職として重要なことだろうと思います。これを自己一致といったりします。

若い心理師たち、良いカウンセリングを受けてますか?

がんばって。20代の若さでこんな自分の認知的不協和に向き合えたら、それこそ心理の専門家として尊敬します。

向き合えるとは、「彼らの罪」以上に「自分の気持ち」を理解できるようになるということですね。

Gルートの多くが心理技術をもたない

現任者Gルート(非大学院ルート)が心理カウンセリングやCBTや心理検査を出来るかというと、出来ない人は多いです。

Gルートが心理カウンセリング出来ないのは、大学院卒でないからではなくて、心理カウンセリングの勉強や練習をしていないから。

そして、心理カウンセリングは大学以外でも学べます。傾聴カウンセリングや狭義CBT(CR)なんか、大学いかなくても習えば出来るできますよ。多くのGルートはそれもしていないってこと。つまり、やれば出来るのだけど、いまのところやってない。

精神分析なんかは難しいかもですが、大学以外で学んでいけないわけではないでしょう。

音楽大学に行かないと演奏できないというわけではないのと同じ。

Gルートの人たちは「試験に受かれば資格がもらえますよ」と言われて試験を受けた人たちですから、そうなっちゃうのも無理もない。心理支援に練習が必要だということも知らない人もいました。やりたいとも思ってなかったり、試験に受かったら次は別の資格を取りに行く人もいます。それは残念なことかもしれませんが、Gルートの人たちの人格や道徳観の問題ではありません。

なので、結果的に心理支援できないGルートはたくさんいます。ですが、Gルートだから出来ないのではありません。

まして、大学院卒と同じイニシエーションを受けていないから出来ないのではありません。

ちなみに、大学院卒がなんでもレベル高く出来るわけでもないようです。

蹴落としの罠が解けると、応援したいGさんと、応援したくないGさんが見えてくるでしょう。

心理支援者が出会う要支援者は「私は男性に殴られた。しかし全ての男性が乱暴なわけではない」「私は親に捨てられた。しかしそんな親も全く愛してくれなかったわけではない」など、痛みの向うにあるものを勇敢に摑み取ります。それをしろと言ってもしかたありません。心理支援者にできることは、寄り添うこと。寄り添う人が自分のシャドウを超えて「全てのGルートが悪い人ではない」「その問題がGルートの人の全てではない」を掴みにいける人であることは意味のあることでしょう。

あえて言うならば

大学で学んだくらいで心理専門家を名乗るのもどうかと思いますよ。

サバイバーから見れば、配偶者の暴力に数年耐えたこともない、リストラで破壊された自尊心を建て直したこともない、生きるために身体を売ったこともない、そんな人が、大学で科学的知識を学んだから心の専門家だなんて言っているの、滑稽です。プーッと笑っちゃいます。

リスカする瞬間の少女を抱きしめたこともない、余命僅かの人と夜通し遊んだこともない、そんな人が、修論や実習で苦労したから教員や福祉相談員を見下せるほど成長したとか言ってるの、現場で信頼を勝ち取れるか心配。

精神デイケアの患者には、モンスターカスタマーと組織の板挟みになりながら家族のために耐えてきた人、仕事で殺人事件に暴露してきた人、数分の判断遅れで億円損失が出るプレッシャーで発病した金融関係者などもいました。そんな患者たちから見ると、大学院卒のシンリシなんて何も知らない子供でしたよ。でも、それを自覚して患者をリスペクトしていることがプロでした。

カウンセリングのクライアントたちもまた、暴言を浴びせてくる認知症の人を最後まで介護したり、女性だからという理由で進学させてもらえない一生の恨み堪えて起業したり、弱みにつけこまれて搾取された自分を許すために15年かかったり、ずるいやつにハメられて失職した人がもう一度人を信じれるようになりたいと決意したり、そんな理不尽を生き抜いた人たちが、「その次」「その後の生き方」を求めて相談に来ます。

「先生」って呼ばれる人が、現任者Gルートが資格を取るのがずるいくらい笑えなくてどうする。

たとえば、犯罪加害者の家族が熾烈ないじめを受けています。なんとなく人々は加害者家族には石を投げたりしてもよいと思っています。そのなんとなくに惑わされず、もっと心理支援が必要だと訴えるのは心理師の大事な仕事(アドボカシー)でしょう。

あるGルート人たちは「あんた受験資格あるよ。試験に合格すれば資格者だよ」とルールを伝えられて、それならと毎朝5時に起きて勉強して試験に合格しました。制度に問題点があったとしても、その人たちは悪人なのでしょうか? 悪者扱いしてよいのでしょうか? そのあたりに敏感になれない人が心理師になることのほうが、大学に行っていない人が心理師になることよりも、よほど問題ではないでしょうか。

あなたの問題意識、関心事はなに?

最後にひとこと

大学ルートの若い人へ

大学で学んだ高度な専門知識が人を救うというのであれば、現任者ルートや無資格者を叩いている暇はありません。

苦しみながら生涯を終える人たちを減らしてください。

使える専門知識をもってるんでしょ? すぐに助けに行ってください。現場に飛び込んで現任者を手伝ってください。すぐに現任者から尊敬されます。

高度な専門知識が本当に役立つなら、やることたくさんあるでしょう。人の足を引っ張ってる場合じゃないでしょう。

あなたは何のために心理師になったのですか?

早く活躍してください。先人達は専門知識も資格もなくやってきたのですから。

大学での6年間の学びに自信があれば、現任者ルート資格者をずるいと思ったりはしないでしょう。

あなたの6年間の学び成果は資格取得なんですか?

悪名高きGルート(現任者ルート公認心理師)の方へ

悪名高きGルート、いい響きだなあ。

心理職って、世間から悪だとか自業自得だとか思われてる人たちを庇える人がなるものです。だからほどよく悪名高いことには慣れておくほうが良さそうです。

かつては心理職自体が悪者でした。私も「お前らが心の弱い連中を甘やかすから、メンタル不調が増えるんだ」などと責められてきました。国が「庇うべし」とガイドラインを出したら庇い始める人じゃだめなんです。

そして、就職に有利になるために資格を取ったのなら、就職に有利になるために大学に行った人に負けるのは当たり前です。

人間界なんてそんなものでしょう。人間界を直視しないと対人援助できないです。

モヤモヤするなら、あなたの支援対象者に、どうして欲しいか訊いたらよいかもです。

それと、批判しない大学ルートの人たちの方が実は多いようなので、その人たちと接するとよいかもですね。ほんとに気にならなくなるかも。

私の知るGルートの人たちは、学んだ知識を現場で活かすべく、既に事例検討会なと始めています。

とりとめなく書いてしまいました。

参考リンク

脚注[+]

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