大阪での心理セラピーを受付開始していますすが、7月1~19日まで個人セッションをお休みします。

心理セラピストの勘と経験を禁止する風潮について

エビデンスに基づいたカウンセリングやセラピーをしましょうっていうのが流行っていて、業界団体なんかもそんなことをうたっています。

私はクライアント側の立場では、セラピストや医師の勘と経験にずいぶんと助けられてきたので、勘と経験に対して謝礼を払うのはやぶさかではないです。

「勘と経験だけではなく、実証的なデータも参照しましょう」というEBA(エビデンス・ベースト・アプローチ)は悪くないと思います。しかし、「勘と経験を使ってはいけない。それは自己満足だ」と主張する科学主義はいただけないと思っています。

本来のEBAと科学主義(エビデンシャリズム)は別物ってことですね。

また、データ重視寄りのセラピストと、勘と経験重視寄りのセラピストと、両方いてもいいんじゃなかなと思います。「エビデンスデータ重視のセラピーをしてます」というのと「エビデンスデータ重視のセラピーしかしてはいけない」というのは全く違います。

これらの違いが区別できない病を「白黒思考」といったりします。境界性パーソナリティ障害の人の心理課題にも似ています。

「勘と経験に頼る」といっても、いろいろあります。

例1:「私の勘と経験によると、〇〇臓器を摘出すると治るような気がします。試しに摘出してみましょう」

これは、取り返しがつかないので、やってはいけないでしょう。ちゃんとレントゲンを撮ったり、数値を測ったり、摘出によって治る率の統計を参照したりしないといけない。エビデンス重視でないといけない。

例2:「私の勘と経験によると、自己肯定感の問題がお悩みの根底にあるような気がします。試しに自己肯定感のイメージワークをしてみましょう」

これは、エビデンスが弱くても、直感を大切にして検討してもよいでしょう。もしハズレだったとしても、取り返しがつかないというほどではないので。

自己肯定感のセラピーも失敗すれば数週間の時間と数万円の無駄になるかもしれません。しかし、臓器摘出のような取返しのつかないリスクではないでしょう。

薬物療法の場合は副作用のリスクがあるので、例1と例2の間くらいでしょうか。

つまり、なにを判断するかによって、リスクの大きさが格段に違うわけです。

それらをすべてひとくくりに「勘と経験に頼ってはいけない」かどうか話すことは、実践家や当事者にとっては違和感が大きいです。

また、科学者や心理学者にとっては、成果が出れば手柄になりますが、まだ成果が出ていないことについての苦しみは共有していません。だから「科学的に証明されていることしかやってはいけない」などと言えるのです。

実践家や当事者は「統計的に証明された」なんていう研究成果を待っている時間はありません。リスクとコストが許容範囲なら、やってみることもあるでしょう。

人生は待ってくれません。なにかが証明されるのを待つ必要はありません。自分にとってどうだったか、自分で検証すればいいのです。

「勘と経験でうまくいかなかったら、どうするんですか?」という専門家もいます。うまくいかなかったら、そこから学んで試行錯誤するんですよ。

ところで、勘と経験を禁止することで、人が助かるチャンスが減ったら、どうするんですか? 

そこでまた、上記の臓器摘出のような例を出して、その結論を自己肯定感のイメージワークのようなものにまで当てはめる、その繰り返し。もうやめませんか。その思考パターン、専門家という病を治療したほうがいいでしょう。

「勘と経験」は安易なヒューリスティックとは限らない

専門知識によって正解が解っている場合には、それをすればよいでしょう。問題は、正解が与えられていない場合です。

私のところには、そもそも教科書通りでうまくいかなかった人たちがくるので、専門知識の話をするとクライアントに笑われます。そんなことくらい知っているよというわけです。

正解が与えられていない場合に、少ない情報で安易に「こうだろう」と決めつけるのはようないでしょう。情報を吟味せずに安易に判断することをヒューリスティックと言います。

「勘と経験に頼ってはいけない」というのはとヒューリスティックに頼るなということかと思います。

私が出会ったセラピストの「勘と経験」は、本人をよく観察している、または決めつけていないので、ヒューリスティックではないのです。

また、ネイティブ・セラピスト[1]当事者経験のある心理セラピスト。自分の傷を自覚して、他者の癒しに出会う者。ユングの”Wounded healer”。の「勘と経験」は、切羽詰まった状況で人生をかけて答えを探してきた、柔軟な試行錯誤の技です。「前回うまくいったから」のような安易なヒューリスティックとは違います。情報を探す手間を省いているのではなくて、必死に情報を探したうえで何度も騙されたり失敗したりして培ったものです。

安易に教科書や論文を信じるエビデンス至上主義こそが、思考停止のヒューリスティックでしょう。

本来のEBAでは得られた情報(エビデンス)をも妥当性を疑って検証、判断することが推奨されています。

「勘と経験」は創造的知能

Sternbergという人は、ヒトの知能には、分析的知能・実践的知能・創造的知能の三種類があると言っています。

専門知識とか、エビデンスがどうのとか、操作的診断(診断マニュアルによる診断)などは分析的知能です。いわゆる臨床心理学とか資格試験なんかはこれですね。これは三種の知能のうちの一つに過ぎないわけですが、これのみが評価される世の傾向にSternbergは警鐘を鳴らしているわけです。

実践的知能というのは、実際の文脈において考える能力で、後述のクライアントの反応や目的に応じる力です。

患者に対して「あんたは○○疾患なんだから、この治療を受けなさい」と強要され続けて悩みの本質を扱えなかったというあるある話は、専門家に実践的知能の不足しているケースが多いということの表れでしょう。

「本人の意向」「自律尊重」と言われるのも、実践的知能のことかと思います。

また、教科書通りに心理療法が進まないとき、セラピストの実践的知能が問われます。多くの場合、教科書とは真逆のことをする必要があったりします。教科書は原則でしかないのですが、教科書通りでないことをすると「自己満足だ」と批判する専門家もいます。実践的知能があれば、「なにか理由があるのかな」となります。

創造的知能というのは、経験によって作られるメンタルモデルです。自動車の運転手が、ハンドルやブレーキを操作するとどうなるかイメージの中で想像できるのは、自動車のメンタルモデルがあるからです。

たとえば、性暴力被害トラウマの人に対して認知行動療法(認知の歪みを正す)で治そうとするとか、愛着不安定(愛着障害)の人に対して暴露法(恐怖対象に慣れさせる)というような間違いが大学教授などの地位の高い専門家によってなされてしまうのは、「そんなことをしたらどうなるかを想像できない」からでしょう。トラウマの経験がないので、トラウマのメンタルモデルがないのです。これは創造的知能が不足しているケースと言えます。

また、ひきこもりの人が家族に対して怒鳴っているという状況を「なにかを分かってもらいたいという気持ちの表れ」と見立てるとか、家族がお互いに攻撃しあう状況を「痛みの反応」として見立てるというのも創造的知能でしょう(想像的とも言えますね)。「ひきこもりの人が家族に対して怒鳴っている場合は、理解されたいという気持ちの表れかもしれない」という専門知識を使って推測するのは違います。創造的知能があれば、そのような見立てマニュアルや専門知識がなくとも、分かるのです。シーソー力学理論を学習していなくても、シーソーに独りで乗るとどうなるか分かるように。

「勘と経験」と言われているものは、この創造的知能に近いように思います。

また、情報がや知識を参照しすぎると判断画ニブルという説もあります。バスケットボール選手が瞬時に状況を判断するコートセンスにも似ています。上述の例のように、セラピー中に教科書通りの手法適用をしてはいけないことに気づく瞬間があります。昔のセラピストは知識を捨てるようにトレーニングされたものです。

「勘と経験」と「客観的な知識」の他にも大事なことがある

客観的知識(といってもマイノリティを切り捨てた統計的な情報、科学とは言い難い)、本人の反応、本人の目的の3つがあると思います。

本人に起きていることが真実であるという考えや、本人の言葉が無視されているというのがよくあります。それをちゃんと聴くとき、おのずと科学的知識とは違う判断要素が入ってきます。

これを科学的知識だけでやろうというのが科学主義です。本人の言うことよりも教科書を信じるみたいなですね。私はそれに反対しているわけです。ですが、心理というのは本人が気づかないこと、気づきたくないことも扱いますので、本人の言うことを鵜呑みにするわけにもいきません。そこで、やはり勘と経験みたいなもが生きてくるわけです。

また、知識が足りないときの方略として、ヒューリスティックとは別に動機充足型という方略があります。これは、本人が何を望んでいるかを頼りに進んでいくものです。

で、この本人の反応とか、本人の目的を考慮するとき、勘みたいなものを使って具体化したり言語化せざるを得ないんですよね。

私はクライアントに、「こうなると嬉しいですか?」「いまやってみたことはあなたの望んでいることですか?」とよく尋ねます。

参考資料

脚注[+]