全ての人が社会に適応してしまったら、恐ろしい

全ての人が社会に適応してしまったら恐ろしい・・・と予感します。

今回は雑談です。いつもそうかもしれませんが。

私は論理的なことも言うことがあるのですが、ときどき合理性を超ええた直感をつぶやいています。

その1つにこんなのがあります。

役に立っていないと思われている人たちは、実は重要な仕事をしているのかもしれない。生かさなければっ。そうしないと社会ごと滅ぶよ。

だから、公的に給与を払ったほうがいいのじゃないかという気がするときもあります。

こういうのは意見というよりも、ざわざわして、とづぜん言葉になる感じです。

福祉事業が、かつては憐れみベースだったのが、人権ベースへと移行してきている世界の流れがあるらしく、それもこの直感に似ているように感じます。

働く働きアリは2割

関連するトピックを挙げてみますと、こんなのがあります。

「働きアリの8割は働かない」といいます。働く2割だけ選抜して巣をつくらせても、やはり8割は働かなくなるのだそうです。

実はそれ、働いていないように見えて、なにかしているのではないか。観察者はモノを運んだりする動作だけを働きだと思っているけど、実は情報を伝えているとか、探索しているとか?

実は有事に闘うとか? 敵に巣の位置がわからないように、おとりとなってウロチョロしているとか?

大量虐殺が起きたときに、半数が生き残るように位置分散しているとか?

あるいは存在していることに意味があるとか?

そういえば、先日、フランス帰りのご婦人が「フランスでは働いていない人への風当たりは日本ほど強くない」と言っていました。南国のある島では40%の人が働いていないと聞いたことがあります。タイでは「女性が働く。おばあちゃんは育児する。男性は・・・なにもしない」と聞いたこともあります。この話を聞いて怒り狂うだけじゃなく、冷静に相対的に日本を見てみることも必要かと思います。

ドキュメンタリー『1/4の奇跡』

『1/4の奇跡』とうい書籍や映画があるそうです。マラリアに強い遺伝子を発生させる仕組みが、1/4の確率で障害者を生み出すというお話が紹介されています。

たしかに、人類の長い歴史の中で障害者は子孫を残さない確率が高かったのですが、遺伝的に自然淘汰されずに、現在でも先天性の障害者は生まれてきます。なんでも遺伝で説明するのもどうかですが、それにしても、「優れた者が生き残り、種は進化するのだー」ではない何かを感じます。

また、自閉症遺伝子のおかげで人類は氷河期を生き残ったととなえる説もあるようです。

映画『プレデーター』シリーズの最近のでは、高度に進化した宇宙人であるプレデターが人類の自閉症の遺伝子を欲しがるという設定があるそうです。

これらの話も、私のざわざわ感じていることと関係があるかもしれません。

たとえば、引きこもり

たとえばですね。引きこもりが社会問題になるほど増えている。で、ひとり一人は社会に適応していない者として見られてきたわけですが、全体として見ると・・・・。

「働いたら負けだ」という台詞を聞いたことがあります。いや、それは言わないほうがいいでしょ、という台詞ですが。ですが、それは個人が社会で生き残るためにはダメということであって、全人類的な視野で見るとですね、なんか意味ありげにも思えるのです。

社会に適応するためには、上手に支配されることが求められます。労働というのは、支配の仕組みでもあるのです。

こんだけ科学技術や社会資本が発展したのですから、江戸時代よりも労働時間は1/10くらいに減ってもよさそうです。ですが、減りません。

たとえば、昔の不動産屋は手書きで契約書を書いていたので、1件契約するのに1時間以上かかっていたとか。ワープロやコピー機がある今なら、不動産屋は1日3時間働けば以前と同じ暮らしができるはずです。ですが、そうはなりません。

それは、経済が人が人を支配するための仕組みだから・・・あ、言っちゃった。

全ての人が社会に適応してしまったら、支配構造が完成しすぎて社会は滅ぶのではないかしら。

いろんな制度の中の実態を聞いてみると、規範に従いながら、よりよい世界を作ってゆくことの限界というのはあるようです。どこかに異端が必要。

たとえば、保険医療制度は整っているのはよいことですが、それでも自由診療をする人たちはいる。大変さもあるだろうに。

全ての人が社会に適応してしまったら、それは一部の人たちの意思で全ての人が動くという社会になってしまう。つまり支配が完成しています。たとえ悪意の支配でなかったとしても、それは100年くらいのあっという間に種を滅ぼしかねないものなのではないだろうかと。

これは、思想がひとつに染まらずにいろんな意見があった方がいいとか、言論・思想の自由とかという話ではありません。

引きこもりの人が素晴らしい意見を言うだろうとか、志をもって引きこもっているとか言っているのではありません。その存在がなにかを表していたり、なにかの可能性を守っていたりするといった感じです。システムアプローチの概念であるIP(Identified Patient)[1]人間関係システム(たとえば家族、団体)の問題がメンバー一人の病として現れるという視点。にも似てます。

そういえば、ずっと前ですが、性的マイノリティが世界を救うというテーマのワークショップを開催したことがあります。これも世界を救おうとして性的マイノリティになったという意味ではありません。

自然淘汰説の幻想と呪い

ダーウィンの自然淘汰説の影響で、敗者や劣等者を排除してゆけば世界がよくなるとなんとなく信じてはいないでしょうか?

「ホームレスは死んでもいい」発言なんかも、多くの人が持っている自然淘汰的世界観の影響があるのではないかと思います。(失言者を吊るし上げている人たちも、ホームレスの命に関心があるわけではありません)

市場原理や自由競争で全てがうまくいくみたいな幻想とかも。

リストラされた人に対して、努力しなかったから自業自得だと吊るし上げるような批判がネットのコメントの大半をしめている投稿をみたことがあります。これは、「なりたくない自分」像に対する怖れから他認を攻撃するシャドウという心理現象でもあります。リストラされないように恐怖にかられて自分の市場価値を上げている人は、リストラされた人を利害関係なくても叩くわけです。

効果のない心理療法をつぶしてゆけば、心理支援業界がよくなると信じている人もいます。「エビデンスベーストアプローチ(エビデンスに基づく判断)のメリットは、効果のない心理療法が淘汰されることだ」などと言っています。埋もれていた優れたものが発見されるというよりも、劣等なものを消すことに意義を感じてしまっているわけです。

かつては優生保護法というのがあって、日本でも障害者に不妊治療がされていました。

淘汰の推進の反対にある流れが人権ですが、国連が「世界人権宣言」を採択したのが1948年ですが、それらが法や施策に反映されるのは今世紀に入ってからのものが多いです。たとえば、障害者差別禁止法は2013年でしたか。不登校の子供に必要な支援を提供して教育を届けるのは国の義務であるとした法律の施行は2017年でしたか。

引きこもりの例で言うと、引きこもりを救済しないと引きこもりじゃない人たちも滅ぶよって感じです。もし引きこもりの人が淘汰されて消えれば、引きこもりじゃない人たちが残って上手くいく・・・という感じがしないのです。

もちろん、可哀想だとかいう話とも違います。

「滅ぶよ」というのは、引きこもりとか、メンタル不調者とか、生産性の低い人たちが経済的な社会への負担となるという意味ではありません。

かつて「うつ病」が増えたときに、その人たちが休業したり手当されることを「経済損失〇〇兆円」と報道されていました。当時の発想では、社会復帰や予防は、経済的損失を食い止めるのが目的でした。いまはメンタル不調での休業が本人や組織を成長させるケースなども事例化されています。

救済というのは引きこもりを治して社会に適応させる(個人モデル)ではなくて、そんな人たちが生きてゆけるように社会や世界観を変える(社会モデル)ということです。

だれかに問題が起きているとき、それは個人要因と環境要因があるのですが、多くの人は「それは本人に問題があるのだろう」という見方をします。[2]それを「対応バイアス」と言います。

自然淘汰とう世界観に代わるもの。

私なんかも、競争社会から降りてしまっていて淘汰される方です。「死ね」と言われることもありました。でも、いいんでしょうか。たぶん、私を殺さないほうがいいと思います。周囲の人たちも「あんたは生きてくれたほうがいいよ」と言います。

ひとりの人間の中でも

心理セラピーで人の人生や深層に触れていると、すべてのことに意味があるんだなあと思わされることはよくあります。

なにか意味があるんです。そう思えないこともありますが、あとで思えることも多い。

そして、人類にとっては意味があっても、それを背負った当事者にとっては、逆に意味がないということもあるように思います。

「どうして私はこんなふうになってしまったのだろうか」「生きる意味ってなんだろう」に対して、「意味なんてないんだよ」ということを受容れるハッピーエンドもあります。

「人生に意味なんてないよ」と言われて恐ろしく感じるのも、それもまた病なんですよ。[3]「意味がないと死んじゃう病」と呼んでいます。

まとめると、意味のない人を生かすことは、社会にとって大事なこと、となります。

「その症状はあなたを守ってきたのですね」ということがよくある。

クライアントさんは自分の本当に会いにくる。「本当の自分」探しは卒業した人たちですね。

ほんとうのことが隠されるとき、なんだか心がざわざわする。同じ感じを社会情勢に感じることがあります。

参考文献

『共生社会へのリーガルベース』大谷 恭子 著
『孤立する都市、つながる街』保井 美樹(やすい みき)監修

脚注[+]

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