「心の悩み」「精神疾患」などの言葉

米国などでは、社会的立場のある人がカウンセリングを受けます。映画『スタートレック』のカーク船長もカウンセラーと話をしていますね。

日本ではカウンセリングを受けに行くのは恥ずかしいというような風潮があります。

また、「〇〇障害であるか〇〇障害でないか」というような診断にやたらとこだわることが事態を悪化するケースもあります。これは、病気ならしかたないけど、病気じゃなかったらけしからん、というような世間体や価値観が関与していることが多いように思います。

心の問題が扱いにくいのは、それ自体の難しさの他に、言葉の誤解や価値観によるものも多いと思います。そこで、今回は理解しておいた方がよい言葉を説明してみたいと思います。。

「神経症」と「精神病」

まず、この違いを見てみましょう。正確さよりも分かり易さを優先して大雑把に説明します。

たとえば、他人が雑談している風景をみたときに・・・

「人が私の悪口を言ってるような気がしてしまうんです」というのは「神経症」的となります。

「人が私の悪口を言っているんです」というのは「精神病」的となります。

どちらも妄想という現象だったとして、その自覚や自分を疑う力があるかどうかですね。例外とか、中間とかもありますので、あくまで例と思ってください。

「神経症」的であれば、本人が問題を自覚できるので、カウンセリングを受けるなど解決へむけて本人主体で進むことができます。辛いから向き合いたくないとか、それほど困っていないとか、モチベーションや抵抗の話は別です。

「精神病」的であれば、本人の自覚がないので、自らの意思でカウンセリングを受けに来ることは少ないかと思います。

また、環境や刺激によって「神経症」的か「精神病」的かが変動する人もいます。フツーとされる人たちも、危機的状況などでパニック状態になれば一次的に「精神病」的になるわけです。

もうひとつ注意したいのは、「神経症」的な人が、苦しみのあまり取り乱したり、攻撃的な態度をとることはあるということです。それも「精神病」のように思わない方がよいでしょう。

カウンセリングを受けているとか、精神疾患があるというと、警戒されたり、毛嫌いされるというのは、「精神病」をモデルに描かれたキャラクターをイメージする人が多いということがあるのではないでしょうか。

法律用語でもありますが、「心神喪失」という言葉もあります。これは事の是非善悪の判断の能力がない、または行動の制御能力がない状態のことで、刑事上の責任を免れる判断基準になっているものですね。ウツ病とか、心に傷がある(広義トラウマ)とかは、たいてい「心神喪失」ではなく責任能力ありとなります。

カウンセリングを受けたがらない、家族がカウンセリングを受けることに反対するなども、同様の理由があるかと思います。

つまり、精神的なトラブル = 精神病・心神喪失 ではない、ということはまず抑えたほうがよいでしょう。

「神経症」的な心のトラブルをもつ人が「精神病」的になることがないわけではないですが、心にトラブルのないフツーとされる人たちの方がよっぽど厄介(ズルかったり、人を見捨てたり、人を虐めたり、無駄に怒ったり)ではないかと私は思います。

また、このような区別を明らかにすると「精神病」的な人への差別が強くなると懸念があって、明らかにされにくいといのもあるかと思います。しかし、おそらく逆に、「多くの精神トラブルは精神病ではない」ことを明らかにした方が、世の人々の「精神病」的な人たちへの差別的攻撃も減るのではなかと思います。なんだかわからないから必要以上に恐いのだと思います。

「心の悩み」と「精神疾患」

かつては日本では、医療は「薬を出す」、カウンセリングは「悩みを聴く」のようになっていて、カウンセリングの一部に心理セラピー(心理療法)があるような感じでした。

近年では医療が神経症を多く扱うようになり、カウンセリングが医療に取入れられはじめました。私はそれを「医療カウンセリング」と呼んでいます。それに対して、昔ながら(?)のカウンセリングを「私設カウンセリング」(私設心理相談・私設心理療法)と呼ぶことにしてみましょう。

日本では「医者でない者が治療行為をしてはならない」という法律がありますので、精神医療と私設カウンセリングは別のものだったわけです。つまり、やっている人が違う。

心理セラピー(心理療法)はどちらかというと私設カウンセリングで行われていました。そこでは「精神疾患」と呼ばずに「心の悩み」のように呼んでいました。具体的には、トラウマと、アダルトチルドレン、愛着不安定(愛着障害)、対人不安、恐怖症とかですね。

ところが、精神医療も精神病より神経症寄りを多く扱うようになってきたせいか、精神医学用語(診断名)が一般にも普及してきたわけです。

ある意味では医療が心の悩みの分野を市場化しはじめたともいえます。最近は私設カウンセラーも集客のためにホームページを病院っぽくしています。

面白いことに、医者が診断すると人は〇〇疾患になります。そして、それは医療行為の対象っぽくなります。

たとえば、「ひきこもり」も将来「ひきこもり症」というような病名が診断マニュアルに載れば、「病院へ行こう」となります。

「糖尿病の基準値を変えると、その日から糖尿病の人の数が増える」みたいな話にも似ています。

つまり、その悩みが「病気なのかどうか」は恣意的な定義次第なわけです。疾患名が恣意的だというのは、自然界の事象を描写する言葉というよりは人工的に道具としてつくられた言葉だということです。

発達障害の当事者支援団体の方の話によると、家族が「うちの子/配偶者ははたして発達障害なのか、発達障害ではないのか」に拘って議論しているとき、悩みの解決が遠のくとも言われています。なぜなら、それは起きていることの本質ではなくて、ラベリングの話をしているからです。

「発達障害」のために医療や福祉や心理支援があるのではなくて、医療や福祉や心理支援のために「発達障害」という疾患名があるみたいになっているわけです。

その悩みは「病気(疾患)なのかどうか」と考えるときには、この背景をふまえておくとよいかと思います。

もはや医療カウンセラーでなくて私設カウンセラーであっても、普及した診断名の用語を使わないことは難しくなってきています。

私は人間の人生に大切な心のテーマが全て「病院」で扱われるという世界に違和感をもっていますが、医師が必要だとも思っています。むしろ、医師をセラピストと呼ばない方がよいとも思います。

人の障害の克服や支援について言われている「生物(生物学的)・心理(個人的)・社会的」という3側面の考えも知っておくとよいでしょう。

たとえば「肺ガンです」みたいなのは「生物学的」の側面に該当していて、科学や狭義の医療がサポートする分野といえます。「精神疾患」という言葉を使うのも「生物学的」な扱いといえるでしょう。

それに対して心の癖や、トラウマなどは、「心理(個人的)」な側面が大きく関わっていて、個性や価値観や生き方といったものが関わるわけです。「心の悩み」という言葉を使うのは「心理(個人的)」な扱いといえるでしょう。

福祉の適用を受ける場合(障碍者手帳をもらうとか)の場合は、医師による診断が必要となります。そのようなルールを設けないと、全ての人が手帳を申請してしまうでしょう。「精神疾患」はその診断名になります。

ですので、医師の役割としては「生物学的」な面での治療、「社会的」な面での診断があり、カウンセラーの役割は「心理(個人的)」な面のウェイトが高くなると思います。私設カウンセラーは医師の指導のもとで仕事をするわけではない(連携はあります)ので、よりクライアントの「個人的な」価値観や想いに近いところの仕事をすることになるかと思います。

なお、関連トピックとして、精神医療では「脱病理化」という流れもあります。問題をすべて「病気・疾患」として扱うのをやめる動きですね。「妊娠」で医療に頼る人が多いけど、「妊娠」は病気ではないというのを思えばイメージできるでしょうか。

そういえば、「妊娠」もかつては医療の専売ではなかったですね。そのうち、ヨガ教室、食事療法、瞑想も医療の一環になるのかもしれませんね。


結論として、あなたご自身のことについてお勧めすることは、精神疾患名は上手に使ってください、ということです。

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