心に傷のある心理セラピストの良し悪し

それは私がネイティブセラピストと呼び、カール・ユングがウーンデッドヒーラーと呼んだものです。トラウマ克服、精神疾患、心の痛みなどの経験や当事者性が、支援提供にあたり有効に働いている心理支援者のことです。

一方で、「自分が苦しんでたら、他人を助けられないでしょう」とか「そんな弱い人間に支援は無理でしょう」という意見も聞きます。これは意見の分かれるところです。

日本ではカウンセリングを受ける人は病理を持っているので心理支援者に向いていないというイメージがあり、米国では逆にサイコロジストの資格を得るためにカウンセリングやセラピーを受けた経験実績が要求されています。

心理支援者を探す側のヒントとして、当事者性が有効に働く場合と不具合に働く場合の両方の可能性のことを、私の知るところを書いてみます。

2種類の支援者

私は支援者のあり方に二通りあると考えています。

ヘルシーヘルパー

 ⇒自分が困っていないから困っている人を支援できる。

ネイティブセラピスト(ウーンデッドヒーラー)

 ⇒自分も困っている(困ったことがある)から支援がうまくいく。

当事者性があるから出来ることもあるし、そうでないから出来ることもあり、知識があるから出来ることもあるでしょう。

そもそも資質は別

心に傷がある(当事者性がある)者すべてが支援者やセラピストに向いているわけではありません。つまり、ウーンデッドの一部がウーンデッドヒーラーになると思ったほうがよいです。

クライアント理解というよりは

よく「当事者体験があるから、クライアントを理解できる」と表現されるのですが、どちらかと言うと逆です。

「当事者体験があるから、クライアントから理解される」です。

具体的に言うと、セラピストが「こんなときにこうなります」と言うと、クライアントが「あ、それ、わかります」と言います。

そしてもう一つ注意点は、「わかります(思い当たります)」であって、必ずしも「同じです」ではないということです。

同じ体験をしたということに意味があるのではなく、わかる(思い当たる)ということに意味があります。そして、わかる主体はクライアント側です。

これは事例の話を提供するときも同じです。クライアントが事例を理解できることに意味があります。

そして、セラピストが当事者性を発揮するのに必ずしも体験談を話す必要はありません。クライアントが「わかる(思い当たる)」と思える話や場を提供できれば、この機能は果たせます。

クライアント側の体験の有無

心理支援者が来談者(クライアント)の席に座ったことがあるかは大きいと思います。

私の知る限り、クライアント側の経験のない支援者は、常に来談者を見下ろしているか、見下ろさないように努力しているかのどちらかです。

それに対して、クライアント側の経験のある支援者は、クライアント側からの視点で世界を見ることができます。

最近のセラピー(心理療法)トレーニングの受講者は、自分がセラピーを受けることを拒む人が多いと聞きます。自分はセラピーを受けたくないという人が、他人にセラピーを提供したがっている。そんな心理セラピストが増えています。

私が受けたセラピスト養成トレーニングでも、「セラピーを受ける」ということは貴重な体験として、受講者たちは競って予約していました。

自分はクライアント席に座りたくないという人は、どこかでクライアントを見下していることが多いです。こうなると、治療的なアプローチ(なおしてあげる)はできても、本人主体の克服の支援は難しいでしょう。人の痛みを自分は理解できないと自覚している当事者性のないセラピスト(ノンネイティブなセラピスト、ヘルシーヘルパー)の方が遥かにマシです。

自分の信じることができないものを人に勧めるのは、ある意味で詐欺行為かもしれない。教育分析や教育カウンセリングが心理療法家やカウンセラーに課せられているのは、カウンセリングの効果とカウンセラーの役割を自分自身が納得するためではないかとさえ思われる。

東山紘久『教育分析の実際』

※教育分析:カウンセラーになろうとする人が教育の一環としてカウンセリングを受けること。

私たち在野の心理セラピストの場合は、ガチのクライアント体験をすることは当たり前でした。ウーンデッドな仲間たちと通り抜けた愛着障害、暴力被害トラウマ、希死念慮などの克服体験は、どんな本や理論よりも勉強になります。

不具合に働くケース

たとえば、「かなりの頻度で発作的に怒り出す」というような疾患をもっている人がカウンセラーになるのは難しいでしょう。1

心理セラピストで不具合に働く典型は、未克服のテーマが怨みに基づく場合でしょう。それは、クライアントに代理戦争をさせる場合があります。とくに感情を扱うワークを扱う場合、クライアントにも人を怨むように誘導してしまうなどです。怒りのワークが間違ったものになります。

また、未完了の恐怖も不具合に働きます。こちらの不具合は地味なのですが、クライアントのプロセスを先に進めることができない場合があります。恐怖を避けるように誘導してしまったり、クライアントの味方という役割を表現できなかったりします。たとえば、人から嫌われる恐怖をセラピストが隠し持っていると、人に好かれるように誘導してしまいます。人から嫌われる恐怖をセラピストが自覚している場合は、その問題は小さいかと思います。

どんなセラピストも人間である限りそれらを多少は持っているとするならば、クライアントとの組み合わせ、すなわち相性ということになります。

セラピストは私的な個人的な悩みや好みや限界を持っているが、それらが障害になっていない。要するに、セラピストは自分自身から自由でいられる人と言える。

『ゲシュタルト療法 その理論と実際』F.S.パールズ

有効に働くケース

愛着障や広義トラウマに関しては、セラピスト自身が克服したテーマは得意分野になると言われています。

疾患が治ることに限らず、折り合いをつけて生き延びたケース、たとえば敏感さなどについては、セラピストが生きづらさをもったままでも、他人の支援は得意になったりします。

重度の敏感さを生き抜いたセラピストにとっては、軽度の敏感さをもつクライアントは必ず幸せになる人に見えるでしょう。

ただし、生き抜いた方法が健全であればです。なにが健全であるかはクライアントの望みがなんであるかとも言えるでしょう。

クライアントがどんな克服を求めるのかによっても、有効性が違うかもしれません。治したいのか、受け入れたいのか、しっかり迷いたいのか。

究極は自己一致

心の傷ゆえに良いセラピーができるか、心の傷ゆえに好ましくないセラピーとなるかは、セラピストの自己一致ではないかと思います。いろいろな関係者との対話から気づきました。

自分の苦しみを自覚していないゆえの心の病をもつ者は心理セラピストは向いてないでしょう。自分の苦しみを自覚しているゆえの心の傷持ちは心理セラピストに向いているでしょう。

人を恨んでいる人は向いていないと思います。親を恨んでいる人が、親にに復讐するためにセラピストになるというようなのが典型です。クライアントに代理戦争をさせます。

怒ることができるのは恨みではないので、OKです。

参考ブログ記事:
 ・怒ることができないと、怨みやすい
 ・あの人が嫌い!? 「怒り」と「怨み」は真逆です

自覚しているというのは、必ずしも開示しているということではありません。心理セラピストも自分の心の秘密を守る権利があります。適度に開示する人もいます。

自己一致は開示しているかにかかわらず、本人がどれだけ触れているかです。これはクライアント体験の有無とも関係しています。

参考動画:“「メンタル疾患の経験を活かして心理・支援職で働きたい!」の注意点” YouTube双極はたらくラボ

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