劣等感による生き辛さ
消極的になってしまう場合
劣等感が思考や行動に影響している場合、チャンスを掴めなかったり、恥をかくのが恐くて挑戦できなかったり、損をすることは多いかもしれません。
劣等感が感情に影響している場合、傷つきやすかったりするかもしれません。単なる失敗が、自己否定につながってしまいます。
これらは劣等感をまともに受け取った結果で、交流分析などでは「絶望的決断」と呼ばれます。
その反対に「反抗的決断」というものもあって、それは劣等感を感じないようにするために、「自分は優れているぞ」と過度に主張して生きるスタイルを指します。
喧嘩しやすくなる場合
プライドが高いというのは健康な自尊心ではない場合が多くあります。「俺はプライドが高いから、悪口言われたらぜったい許さない」という場合、それは劣等感が深く刻まれている可能性があるでしょう。
※こういうことを人に指摘しすることはお勧めしません。ここでの説明しているほど人の事情は単純ではありません。ご自身の自己洞察のヒントとしてください。
劣等感が刻まれていない、もしくは自己肯定感があれば、悪口を言われることはそれほど脅威ではないので、損得考慮して捨て置くこともできます。
人生の目的が優越感になってしまう場合
優越感を常に感じていなければいけな生存スタイルの場合は、生き辛さを自覚するというよりもじわじわと人生の弊害となることが多いでしょう。すなわち、常に人を見下していないといけなくなります。単純なところでは、勝てるゲームにしか参加せず、お山の大将を目指すといったところですが、より高度化すると「負けるゲームに参加できる成熟したオレ」を演出するというようなスタイルもあります。そうなると、本人も生き辛さなど表面的には感じていないわけですが、なぜか周りに自分より劣る人たちは集めておかないと気が済まないなどの、独特の捉われたスタイルが確立してしまいます。そのことが人生になんらかの制約を与えて、あるところまでは成功するけれども、その先に進めないなどということも起きることがあるようです。
また、いわゆるカッコつけになってしまうわけですから、人から「すげー」って思われるためにやっていることが自分のやりたいことになってしまい、本当に自分のやりたいことが分からなくなってしまうこともあります。
問題は、人生の目的がずれるということと、他者肯定が難しくなるということです。
克服のヒント – 人を尊敬するという実践
上述の優越感が必要になるケースに当てはまるかと思いますが、劣等感が深く刻まれていると、人を尊敬することが難しくなります。カリスマのような人は尊敬できますが、自分と同じくらいのクラスの中で他者の優位を認めることはできません。
劣等感が人を見下す態度につながるというのは、たとえば職場で成績の悪い人が、後輩が入社してきたらやたらと先輩ぶるみたいな感じです。一時的に起きることとしては、管理職にも人に鞄を持たせたり、ドアを開けさせたりしないと気が済まない人がいますが、「誰も馬鹿にしてませんよー」と感じてもらうとおさまったりします。
劣等感に人生を支配している人が、最初に学ぶとよいことは、
「人を見下すことは劣等感の克服ではない」
です。劣等感があるから、人を見下す必要があるのです。
この記事を読んで、「あー、あいつは劣等感があるんだな」と誰か見下して安心する材料にするあなたもそうかもしれません。(笑)
劣等感という心の問題は日本人の殆どが持っていると言われるくらい身近なものです。劣等感を持っている人を馬鹿にしなくなったとき、あなたは劣等感を克服したと言えるのかもしれません。
さて、劣等感があると人を見下したくなるという性質の逆をしてみることは、やってみる価値があるのではないでしょうか?
つまり、人を見下すのをやめるという実践ですが、「〇〇しない」という実践は人間にとって難しいものなので、「見下す」の反対である「尊敬する」をしてみるわけです。逆をすればよいってなるとは限りませんが、そこに葛藤や抵抗が生じるとしたら、それが自身の課題を教えてくれるかもしれません。
欠点を見ないようにするというよりは、長所を見つけるというほうが、人間関係の改善においても現実的です。
それが出来るようになってくれば、次に人の欠点や劣等を見つけたくなる自分になにが起きているのかを観察してゆくことになるかと思います。
心理セラピーで扱う場合
深く心に刻まれた劣等感の克服をするために心理セラピーを取り入れる人もいます。心理セラピーでは劣等感は中核信念とかスキーマの一種と捉えることができます。
「私は劣っている」「劣っていることは危険なこと」「劣っていると愛されない」などですね。
その信念を手放すという目標になります。しかし、多くの場合、それを理性や意識の力では行えないですから、体験的なイメージワーク、感情処理によってご自身の奥底にある「ないことにされていたこと」を隠す必要のないものとすることで、スキーマを自由に選べるようにしてゆきます。
また、そのような心理セラピーは自己肯定感を手に入れるセラピーでもあります。もちろん、自己肯定感は上述のような喧嘩しやすいプライドではありません。そしてそれは他者肯定感とも表裏一体のようです。