映画『ある少年の告白』を心理セラピストが観た

主人公の少年が同性愛者を矯正する「救済プログラム」に参加させられた実話を元にした映画です。この矯正セラピー(コンバージョンセラピー)は今でも行われているそうです。


映画『ある少年の告白』オフィシャルサイト

あらすじ

牧師の息子であるゲイの少年が救済プログラム(ゲイであることをやめさせる心理セラピーもどきの合宿)に参加させられる話です。父親はこの件について教会の長老たちに相談し、矯正が必要と判断します。少年が施設を出たいと親に連絡してもなんとか脱出するまでが描かれています。実話に基づくストーリーです。

みどころ:本人の同意

救済プログラムに参加させるにあたって、本人の意思確認が行われます。本人の選択のようでいて、巧妙な強制になっているというところがみどころです。

本人に参加することを選ばせる。でも、「参加しないと親子の縁をきるぞ」とか「参加しないと両親が悲しむぞ」とかの脅しが背景にあるのです。

営業研修でも本人に「今期は3億円達成します」と言わせるというのありますね。これは詐欺やブラック企業の基本だと思います。「ご自身で判断したじゃないですか」「あなたがやると言ったんですよ」というわけです。

強制というものは、巧妙に本人の同意をとるものだなあと思います。それがどのように行われるか、描かれています。

みどころ:セラピー技法自体に善し悪しはない

救済プログラムの中に心理療法(心理セラピー)の技法があれこれ出てきます。それが間違って使われている例、悪用されている例としてみるのも興味深いです。

たとえば、ジェノグラム(家系図みたいなもの)を参加者に書かせます。子供の支援現場などで、その子の環境を理解するために用いたりします。味方となるリソースを探したりですね。また、世代間の影響を分析する専門家もいるようです。ですが、映画では「問題のある人物」を家系図の中に探させます。同性愛に原因論をつくりだそうと試みるわけです。使う人の意図によってツールはどのようにでも化けます。

エンプティチェア(空椅子を目の前においてのイメージワーク)で父への怒りを出させるという場面もあります。この技法は私のところでも使いますが、使う意図がまったく違います。この技法については、クライアントさんたちからいろんな報告をうけていますが、形式だけ真似したり、手順を知識として覚えてもできないのです。これは治療法ではなくて実践法なので、心理学者ではなくて元当事者から学ぶ必要があります。

なんでもかんでも感情を出せばいいってもんでもないのです。「とにかく感情を出せ」というのは、セラピスト自身が体験を通じて学んでいないのです。
セラピストが親を怨んでいると、クライアントにも親を怨むようにしむけることがあります。

また、感情を出すことで心の蓋が開くことがあるのですが、開いたときにセラピストが何をするかが重要です。セラピストの価値観を押し付けることをすれば洗脳になりますし、本人の中から何かでてきて「やっと本当のことが言えました」となれば癒しです。

映画の中ではセラピストがセラピストの価値観に従って少年のプロセスを進めようとしてるのが描かれています。たぶん、このセラピストは、クライアントに感情をおもいきり出せて方針状態にすれば、心が開いて洗脳できると思っているのだと思います。それが成功するのは「洗脳されたい人」というタイプの人たちです。そのような洗脳は、たいていの場合は抵抗が起きてうまくいきません。だから監禁して行うのです。

もうひとつ、過去を語るナラティヴな手法が用いられています。自分の過去、この場合では同性愛をしてしまったことを振返り反省するレポートを読み上げさせられるのです。これも本来は、自分の過去を書いたり語ったりすることで癒しを得てゆくまともな手法があるのです。映画では、セラピストの価値観に忖度して書いて語ることが要求されています。

使われている手法は、すべて本来であれば本人の内側から変化を生み出すものですが、それを他人の都合である外側から変化を強要しようとするように使われているという点が興味深いです。

これは心理セラピーと医療の似て非なる部分とも重なります。

救済プログラムの手法が、ほんらいは人を本当に救うために考案されたものなのだ思って映画を観てみると味わい深いと思います。

みどころ:我が子よりも権威を信じる

日本で心理セラピーをしていて、これに似ていると思うのは、「子供の気持ちよりも、世間体を気にする」

映画の最後に「多くの矯正セラピーは免許のないセラピストによって行われている」とわざわざ表示されます。劇中でも、施設のプログラムに疑いをもった主人公の母親が「あなたは医者でもない、資格もない」のようなことを叫ぶシーンがあります。

※米国の免許(license)と日本の資格制度はいろんな意味で異なりますが、それについてはここでは詳説しません。

そもそもこの物語のテーマは、「あなたは我が子を信じますか? それとも権威を信じますか?」というところにあります。宗教の権威、長老の牧師の意見に従って、息子を「救済プログラム」に入れてしまうお話です。そして、我が子を信じて「救済プログラム」から救済できるかというテーマ。

ひとりひとりの心を大切にせずに、宗教という権威を妄信するという過ちからの脱出物語なのですが、次に「免許」という別の権威を妄信しましょうという、同じ過ちで映画が締めくくられるわけです。

この映画自体が権威を信じることの恐ろしさを、在野セラピストの恐ろしさにすり替えて、別の権威(現在力をもっている権威)を妄信することを促しているわけです。

権威よりも家族を大事にする、自分で考えるということができないかぎり、妄信する先を変えても同じことだと思います。

ぜひ観てほしい映画ですが、残念な映画でもあります。

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