私はセラピー手法や理論は、当事者視点のものと治療者視点のものがあると思っています。
治療者と当事者では見ている世界が違うと思います。
たとえば、当事者視点では「足を踏まれて叫ばずにはいられない」ということが、治療者視点では「叫んでいるのは足を踏まれたからだ」となります。
治療者からすると、叫ばなくなることが解決です。それは実際によく試みられています。そして、足が無事ならなおよしです。
当事者からすると、痛くなくなることが解決です。それが無理なら、せめて叫びたいです。
たとえば、ひかこもりの段階として専門家は「退行が全面に」と表現したりします。治療者や研究者にとっては、退行していることがその本質的なのです。
当事者からすると、退行することが最善という現実があるかもしれません。退行せざるを得ない状況が本質的なことでしょう。
つまり、大人になれない人がいるのか、大人になれない状況があるのか。
状況というのは環境のこととは限りません。内なるものも状況です。
治療者は、治ることで幸せになるかは、治ってから考えればよいと考えます。
当事者は、治ることで幸せになるとわからなければ治りたくありません。
それをやめたら大変なことになるからです。
たとえばワーカホリックの人がいます。たとえばウツの人がいます。
それらが治るときに自殺が多いと言われたりしています。だから治療は気をつけましょうと。
あのね、それは治療者の目線です。
治療者はとりあえずワーカホリックやウツを治そうとします。
私たち心理セラピストは治そうとする前に考えます。
ワーカホリックやウツが希死念慮を隠していることがあります。
ワーカホリックやウツになることで、死にたくならずに済んでいるのです。
内なる「生きる価値がない」に対抗して「生きる価値がある」を証明するために、ワーカホリックになっているのです。
ですから、この場合はワーカホリックを治してはいけないのです。「生きる価値がない」を治すのです。
順番が違います。
治療者は本人の抵抗を解きたがります。
当事者は抵抗します。
治療者は二次利得などで抵抗を理解しようとしますが、当事者は抵抗が何に対する抵抗なのか考えることが出来ます。