昔のセラピーは社会の常識に合わせるために、異常を矯正するものでした。今は、本人の望みをかなえるためのものです。そんなことを時々、記事に書いています。
でも、昔は本当に異常なものを矯正するものだったのだなあと思います。
たとえば、動物に育てられた子供が保護されたのち、結局人間の生活になじめずにジャングルへと逃げ帰ったというお話があります。そんな子供を変えようとしたことは「治療(セラピー)」と呼ばれています。それをすることの是非の議論はしません。それが「治療(セラピー)」と呼ばれていたという話です。
歴史映画や歴史記録などからしても、性適合をサポートするセラピストというのも、本人よりも決定権を持っていたようです。権限や強制力を使って、人を正しく導くものという立ち位置です。それらをコンバージョンセラピーというそうです。
あるとき「人を正しく導くのがセラピストだろ。女の恰好なんかしてていいのか」と注意されたことがあります。なるほど、それは昔のセラピー観に合っていますね。
私が当たり前と思ってきた、本人の意思で行う現代のセラピーというのは、歴史上では非常に斬新なものなのかもしれません。
本人の意思を尊重するというのは、ずっと若い頃から私の価値観でした。それはとても特殊なものです。多くの人は、「自分が正しくて相手が間違って入れば、相手を力ずくで変えてもよい」と思っています。できるできないとは別の話。その権力が与えられると、大抵の人はそれを実行するということを、私は経験的に知っています。
現代においても、正しい自分が、間違っている患者・クライアントを変えなくてはいけないと思っている支援者は多くいます。
セラピーのクライアントの1割くらいが、呪縛の鍵がとれたところで、不幸へと引き返します。それをセラピストが「そっちにいっちゃいかん」と止めるものではありません。不幸を選ぶか幸せを選ぶかはその人が決めることです。
でも、セラピストの願いを伝えることはします。幸せを選んでほしいと。
現代のセラピストというのは特殊な性質を持っています。あなたの家のエアコンが壊れていて、それがあなたにとって損失しかもたらさないと分っていても、あなたの許可なくあなたの家に入り込んで勝手にエアコンの修理をしようとはしません。電気代がかかって温度調整はしてくれない。どう考えても修理した方がよいわけですが、修理するかどうかはその家の主であるあなたが決めることだと思っています。非常に特殊な価値観、倫理観をもっているわけです。
参考:
・同性愛の”矯正”治療「コンバージョン・セラピー」経験者が語る
・映画『ある少年の告白』
※よくこのテーマについて「矯正治療をしている人たちは免許をもっていない」と述べられますが、免許のあるなしでセラピストを判別するのは同じ過ちです。(なお、日本はそもそも資格制度が全く違います)