近年世界的に注目を集めているセルフ・コンパッションについて、サバイバー向けに私見をまじえて書いてみます。
コンパッションと甘やかしの違いを発見すること
セルフ・コンパッションとは「自分自身へ向けた慈愛」「ありのままの自分に優しく」というような意味です。
さてこれを聞いて、「自分への慈愛」と聞いて、甘やかすこと、無責任になることをイメージする人は多いと思います。だとしたら、その誤解を徐々に解いてゆくことが実践の中心ポイントになると思います。
セルフ・コンパッションは責めることをやめることでもありますが、甘やかすことではありません。つまり、「甘やかす」か「責める」かのどちらでもない態度を見つける実践と言えるかと思います。
人は多くの場合、「甘やかす」「責める」「無視する」のいずれかの態度を選択しがちです。そこで、セルフ・コンパッションの実践に触れると、「甘やかす」と解釈して、抵抗を感じます。次の段階では「甘やかす」と「責める」の二択の間でもがき、選択することに抵抗を感じます。選択しないというのは「無視する」を選択することになります。
それらの抵抗が起きるのは自然です。でも無視しないといったあたりに留まることができれば、まずまずでしょう。それを自分に許すのもセルフ・コンパッションかと思います。
感情反応に注意
また、強い感情反応が起きることがあります。これは、自分を責めることによってもっと奥深い苦悩を封じていた場合や、甘やかしや許しに対して憎しみ/怖れのようなものがある場合などです。
これらの場合は、セルフ・コンパッションは高度な実践なのだと理解して、無理しないのがよいでしょう。セルフ・コンパッションは甘々な印象があるかもしれませんが、人によっては過酷な挑戦なのです。
「セルフ」と言いながら他者が鍵
コンパッションとは友人のような他者に向けた共感的優しさ。友人にそんな声掛けをするとき、友人を甘やかしてダメにしてやろうなんて思ってはいないでしょう。それと同じことを自分にも向けるのがセルフ・コンパッションです。
ですので、他者にコンパションができなければ、セルフ・コンパッションもできません。「自分に寛容、他人に厳しい」というのはセルフ・コンパッションではありません。
「他人に寛容、自分に厳しい」のは、健全な場合もありますが、怖れに基づいている心の病である場合もあります。「自分に厳しい」の意味が自分への信頼、自分への健全な期待に基づくなら、それもコンパッションですが、「自分に厳しい」の意味が自責的ならそれは怖れに基づいている可能性があります。
練習は筋トレっぽい
一つのやり方としては、ここではコンパッションを声掛け(台詞、コンパッション・ワード)によって表現する方法があります。まず、マインドフルネスやフォーカシングなどを使って自分の中にある自責感に気づき、そして、あたかも友人へ向けるかのようにコンパッションの声掛けをしてください。
※トラウマ・サバイバーの場合は自責感の他に、「恥」などの感情も重要になってきます。
ただし、習熟しないうちは深刻なテーマを扱わない方がよいです。また扱う必要もありません。というのは、この実践はセルフ・コンパッションの力を育むためにやるのであって、今扱っているテーマを解決するのが主目的ではないからです。これはスポーツ選手の筋トレが本番試合ではないのと似ています。
練習により、コンパッション・ワードに効果があることを体験的に知ります。効果がなければ、ワードややり方を工夫します。
全部やってみる
とくに心理サバイバーにとっては、コンパッションはガイドなどによって「させられる」ものであってはならないように思います。
また、自分を責めていることに気づくだけでも大きな変化となります。それができただけでコンパッションではないでしょうか。そこであらためて意識的にメッセージを送ると、なおさらウソっぽくならなだろうかと感じたりもします。
また、「甘やかす」との違いもなかなかわからないかもしれません。
そこで、「責める」も「甘やかす」もやってみればいいんじゃないかなと思います。責めてみて、甘やかしてみて、やっとそのどちらでもないコンパッションが分かる準備ができるのかもしれません。「甘やかす」なんて嫌だと思っている人も、案外と甘やかすってどういうことなのか知らないのかもしれません。自分が「甘やかす」と思っていることをやろうとしたら、意外とそれは甘やかしと違う心が生じていることに気づくかもしれません。
責めることも、甘やかすことも、コンパッションすることも出来るようになって、それから選択してもよいのかもしれません。
参考
- 『マインドフル・セルフ・コンパッション ワークブック』クリスティン・ネフ, クリストファー・ガーマー
- 『セルフ・コンパッション』クリスティン・ネフ