「児童虐待」という記号の使い方

「虐待が増えている」という表現に注意したい

「近ごろ児童虐待が増えている」という言葉をよく聞きます。多くの場合は、「よく聞くようになった」の言い間違いです。

稀に統計の話であったとしても、示されるのは児童相談所の取扱い件数の増加です。通告窓口の告知やキャンペーンなどにより取扱い件数が増えているであろうことを考慮すると、児童虐待自体が増えkaているのかは慎重に判断したほうがよいと思います。

セクシャルマイノリティも「最近は多いね」と言われますが、実は昔からいました。

なぜそこに拘るかというと、「増えている」という言葉は、自分には責任がないという感覚を強めるかもしれないからです。

「わけわからん、けったいな事件が増えてる」みたいな言い方がされるときに、「増えている」という表現が好まれます。それは、社会をつくってきた自分には責任がないという態度です。

そんなことが起きる世の中を放置してきたのは自分たちであることから目をそらさせる効果があります。

ですので、私は「痛ましいね」など言いたいときに「増えている」と間違った末尾となっている場合は考えてなおしていただきたいと思っています。

ちなみに私の立場は、児童保護に関わったことはなく、かつて虐待を受けた大人の広義トラウマセラピーの経験と、加害経験のある親から相談を受けた経験とがあります。

「増えている」から救済するのか

虐待を救済する必要性は、増えてるかどうかでしょうか?

自殺対策も同様ですが、「増えてるから助ける」というのは、人の苦しみがわからない視点の発言だと思います。

「増えてるから体制が必要」とは言えると思います。ですので、行政が統計に基づくことには反対しません。また、背景を扱うには「増えている」という現象を分析する必要もあるでしょう。であれば、なおさら、本当に増えているのかは知る必要があります。

行政ではなくひとり一人の方には、この問題を考えるにあたり、「増えてる」ではなく、その内容について考えてみていただきたいと思います。

以前は虐待しているママがセラピストに相談に来て克服するということがありましたが、ちょっと難しくなってきているように思います。これは「覚せい剤は悪だ」キャンペーンをすると覚せい剤の重傷者が増える現象を思い出させます。

専門家が書いた書籍なども、「増えているから、こどもを助けなければいけない」という構造になっているものがあります。

加害者の救済につて

日本では「虐待をみつけたら通報を」というポスターが作られていましたが、ドイツでは「虐待しているあなたは匿名相談へ」というポスターが作られていました。

この違いはとても重要です。後者は加害者の救済です。これは日本の公的な対応がとても遅れていると実感した心理関係者もいます。

しかし、いまのわが国では、親を援助することで虐待を予防する取り組みと、その逆に作用し得る「取り締まり」を求める動きとが錯綜しています。

鷲山拓男『虐待予防は母子保健から』p.74

※厚生労働省のガイドラインには「虐待している親からの相談」という項目があり、責めずに一緒に考えるというようなことは書かれてはいます。でも、国内の書籍や資料をみていると、人の苦しみを知らない研究者が書いている印象が私にはします。

また、虐待によって引き離されても、こどもに夢を尋ねると「親と暮らすこと」と言われたという話も何件か聞いたことがあります。

私は虐待加害者のママさんに泣きつかれたことが何度かあります。「私はとんでもないことをしてきた。子供をたすけてください」というように。たいていは、世代間連鎖のなかで、それが言えるだけ少し良くなっているのです。

そのようなケースでは、親が救われる必要があるという実感があります。これは実際にその人に接した体験や、自分自身が追い詰められた経験がなければ理解できないことかもしれません。

昔ながらの心理セラピストとしては、「こどもを助けてほしければ、あなたが救われてください」というメッセージが浮かび上がります。

※このあたりについては、いろいろエピソードがあるのですが、匿名性を確保したとしても諸事情により書けません。

さて、加害者を救済しようとすれば、悪の味方をする悪い奴のように思われます。

そのとき私は悪の味方だと思われてもよいと思いました。

「こどもを助けなければ」と叫んでいる人たちは正義の味方。私は悪の味方です。(旧いタイプの)心理セラピストというのはそういうもの、社会の規範から距離をおいたところにいる者という側面があるとも思います。

「虐待」という言葉でひとくくりにすることに問題がある

「こどもどうなってもいいっていうんですか!」と怒る人がいます。

加害者親の救済が必要であるということと、こどもがどうなってもいいということを同一視しているから、いつまでたっても取扱い件数が増えるばかりで、凶悪な虐待事件が減らないのだと思います。

※死亡にいたる事件の件数は横ばいです。

児童相談所が知っていながら殺されてしまったというニュースを耳にするようになってきました。愉快犯的な虐待は、虐待というより犯罪としてもっと早急に動くべきだと思います。

虐待といっても、笑いながら虐待する愉快犯的なものから、育児ノイローゼと紙一重の虐待まであります。

性欲にかられて連れ子の布団に入る性的虐待と、愛着不安定の母親が乳児の愛情希求に恐怖を感じておこなう虐待は、まったく別のものです。

それらを同じ「虐待」と呼ぶことは、とても危険な呪いとなるでしょう。

※育児ノイローゼ紙一重の虐待であれば影響が軽視できるということではありません。影響の深刻度というよりも、問題の解き方や社会への意識の持たせ方が異なるであろうということです。

※ここでの区別は語用が社会に影響を与えることについて述べています。専門的な立場の方であれば、取り締まりで使う用語と、支援で使う用語を同じ「虐待」とせず区別するのをよしとするかもしれません。たとえば、前者を「犯罪」、後者を「虐待発生問題」というように。

それらを区別(簡単に線引きできないケースはあるにしても)できない背景には、加害者を憎むことで解決しようとする心理があるのではないかと思います。

虐待防止に関わる人たちの中にも、怨みに動機づけられている人たちもいます。怨みは怨む相手を間違えさせます。

当初の「虐待防止」キャンペーンは、傷まみれの子どもの写真、骨折のX線写真、ときには遺体写真まで公開して「こんなことが許されようか」と訴えるところからはじまった。こうして非道な親(虐待者)のイメージが「虐待」の言葉とともにひろまった。

滝川一廣『子どものための精神医学』p.333

凶悪なケースは野放しにされ(統計によると死亡件数は増えても減ってもいない)、克服しようという意思のある親たちは怯えている。

そこには、支援関係者の感情や恨みがからまっているような気配も感じます。つまり、「虐待」という記号に対して怒りをぶつけているように思います。

本当になんとかしたいのであれば、正義のお面を捨てて、加害者をもっとよく見るのがよいと思います。

本当に恐ろしい人はいます。苦しんでいる人もいます。

「虐待」という言葉は加害者が主語となっている点にも気づく必要があると思います。虐待加害と虐待被害をひとつの言葉で表すために、救済が目的なのか裁きが目的なのか混同されたり、救済の目的が裁きのみで達成されるイメージになったりしやすいかと思います。

この区別ができていないと、この記事のような文章は「虐待行為をゆるせ」と言っていると反発されて封じられてしまいます。このような問題を難しするものの一つは社会の思考停止だろうと思います。

「虐待」という記号と闘っているから傍観者になる

虐待加害者と会った話を上述しましたが、一方で虐待された過去をもつクライアントたちにも会ってきました。

虐待にかぎらず、サバイバーのクライアントの多くは、セラピーが確信にせまると「みんな傍観者だった」と言います。

「虐待」という記号と闘っている虐待防止をみると、まさにその傍観者を見るような気持ちになります。

傍観者とならないように通告キャンペーンをしているのですが、個々の事例をみないかぎり傍観者なんだと思います。

救ってきたのは連鎖を断ち切ってきた当事者たち

「虐待が最近増えている」のが本当だとすると、私のクライアントが虐待された頃は未だ虐待が少なかったということでしょうか。そんなことないと思いますが、仮に少なかったとしたら助ける必要がなかったのでしょうか? 増えているかどうかは関係ないと思うというのはそういうことです。

「増えているから助ける」という専門家の説明をきくたびにゾッとします。

ほんとうにその苦しみや被害をなくしたくないなら「虐待」「パワハラ」などのようにラベルがついていないものを放置しないはず。

たぶんこの問題を救ってきたのは専門家とかではなくて、連鎖を断ち切ってきた当事者ではないかと思うのです。彼らに代わる/共にある覚悟がある専門家がいたら、支援体制はこうはなっていないような気もします。そうでもないのかもしれませんが、なんだかそんな気持ちになります。

あるラジオ放送でも教育の専門家が「虐待は脳の病気だと思った方がいい。行動療法などで治さないといけない」と言っていました。ぞっとします。

私は「病ではない」「治さないほうがよい」と言っているのではないです。セラピープロセスとは異常を正常にすることではないということを知らない頭でっかちが言動に表れていると感じるということです。

専門家による「依存症と同じだ」という雑な議論もあるようです。

※ちなみに、児相の対応マニュアルでは「一時保護」など矯正的措置が必要なケースとそれ以外を区別しています。その区別は私の言う「ひとくくりにしない」と同じ意味かと。「それ以外」の対応について「治療」「更生」などではなく「支援」という言葉が使われています。これは妥当だと思います。

「裁判で加害者が泣いているのは、反省からではなくて、頑張っている自分が責められるという被害者意識からです」「身勝手ですねえ」ということも言われていました。もっと自分を責めるべきだということでしょうか。

裁判になるケースは、厳しい対応が必要なケースで、そうなのかもしれません。

ですが、かつて私に助けを求めてきた加害者(になりかけている人)も泣いていました。責めないで助けてくれる人を探していました。そのような人の泣きながら出てくる言葉は「子供をたすけて」でした。それは通報してほしいという意味とは違います。その人は克服しました。子供を助けるには自分が救われる必要があります。そしてそれをやり遂げた人たちはいます。

それを助けた人たちが「子供を助けるために治療しなければいけない」という人間観の専門家ではなかったから、助かったのだと思います。

この分野も専門家よりも当事者から多くを学べるかと思いますが、当事者は裁かれる悪とされているので公に耳を傾けられることはありません。

でも、当事者の聴いていると、虐待がなくなるかはこの人たちにかかっていると、虐待をなくすのは専門家ではなくてこの人たちだろうと感じます。

私にはデータを揃えて学術的に物申す力がありません。だから黙らないといけないのでしょうか。学術的に証明されていなくても、実感として感じることを意見として伝えてもよいのではないかと思い、書きました。

※日本でも親が匿名で相談できる団体はいくつかあるようです。(通告義務に罰則を設けると活動できなくなると懸念されています)

参考

『虐待予防は母子保健から』鷲山拓男
「子ども虐待対応の手引き」厚生労働省
『子ども虐待への挑戦―医療、福祉、心理、司法の連携を目指して』日本子どもの虐待防止センター

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