そのような体験をしてホッとしたなら、それは結構なことです。
違和感があったなら、この記事がヒントになるかもしれません。
心理支援技術としてのテンプレート
心理師の過去の試験問題に来談者への対応を選択させるものがあり、「相談に来たことをねぎらう」というのが正解になっています。過去問にはよくありました。
この設問、それは経験あるカウンセラーなら正解できるものですが、繰り返し出題されることに気持ち悪さも感じます。
そういう場面設定について対応を考える勉強会はあってよいと思いますが。
私はよくカウンセリングやセラピーで、「よく来てくださいました」とねぎらうことがあります。
ですが、それは教科書に書いてあるからでも、試験のために覚えたわけでもありません。それが大事だから言っていたのです。
ですから、いつも言うわけではありません。必要なときに言います。
「教科書に書いてあるから、来談をねぎう」というのはそれとは違う感じがします。
ちょっと批判的で申し訳ないのですが、意地悪な指摘をすると、そのようなねぎらいはラポール(信頼関係)を作って支援をしやすくするのが目的なので、面談の最初にしか言わなかったりします。
でも、心を癒すこと、今後の行動を支えるために言うなら、面談の最初とは限らないです。クライアントがなにかに気づいたタイミングに言うことも重要です。「ほら、たとえば今回相談に来たじゃないですか」とかね。
まあ、これを読んだ心理師がこれを暗記すると、また同じことなんですけどね。
そのような知識偏重の教育により、本当の「来談を労う」が形骸化するように感じます。それが、この繰り返されてきた試験問題への違和感です。
「ポテトもいっしょにいかがですか?」
そのような技術としての会話テンプレートも、初心者の型としては悪くないのかもしれません。でも、習ってもいないのに自然に言葉が出て来る心理支援者は育ちにくいでしょう。
そこが悲しいところです。最低限の対応ができる心理師を大量生産するのが目的だとすると、理にかなっていますが。
そしてその技術は多くの相談窓口で機能します。
そのプロっぽさへ違和感を感じるあなたへ
「よく相談に来てくださいましたね」
それがどのように大変なことか、あるいは勇気のいることか、この人知ってるんかいな? って感じたことがあります。
そんなとき、その支援者は不思議とプロっぽく見えるのです。
その不気味なプロっぽさというのは、「カウンセラーって気持ち悪いよね。寄り添おうとしてくるじゃん」という昨今の声にも通じるかもしれません。
たぶん、教科書に書いてなかったら言わないであろう言葉を言っているのが、その不気味さであり、プロっぽさなのだと思います。
でも、私のクライアントがその違和感を訴えるとき、それはクライアントの悩みを解決する重要なヒントになります。
「これまで会ったカウンセラーさんは、まあ悪い人ではないんだけど、なんか遠くにいる感じがしたんですよね」とかですね。
つまり、知識による言動ではクライアントに届かない。もしくは、クライアントがもっている不安とか、敏感さとか、そういうものが表れているんですね。
それはクライアントの大事なものとか、深いところにある心の傷とかが、見つけてもらうことを待っているということ。
そこを扱うと力が湧いてくるようです。
ところが、そちらを担当する心理支援者は不思議なことに、独特のプロっぽくなさがあるのです。マクドナルドの店員さんがテンプレート以外の台詞を言うとプロっぽくなくなるのと同じでしょうか・・・