対称ではないけど、対等だと思います。
心理支援の教科書には、対等ではないことを前提にしたようなものもあります。対等を目指すように教えるものもあります。
対等を目指すというのは、見下さないようにするということで、相当な訓練が必要とも言われます。ずっと出来ない人もいます。
それは上から目線の発言をしないというような表面的なことではありません。
でも、心理職も多様です。
ネイティブセラピストは最初から見下していないこともあります。仕事柄ではなく、最初からです。
むしろ、ときには上から目線で物言う必要もあることを学ぶ必要があるくらいです。
たとえば自傷傷のあるクライアントを見たときに、私は素直に「それはいかんな」と思います。
それを否定せずに、気持ちに寄り添うとかの心掛けはありません。
私にも自傷傷ありますから。
「自傷するのは私の勝手やんか」も分かります。それはある意味ではそうだろうと思います。
(こんなことはブログなどに書けませんが。あ、書いちゃった。いけませんよ、自傷は)
私にとってそれは、「どうやってやめさせようか」というよりは、「私はやめましたよ。誰かにやめろと言われたらからではなく、やめたの。あなたはどうしたいですか?」というところがスタートです。
同じだとは言いません。自傷の意味も人によって異なるでしょう。
でもそこには、正常な支援者が異常な者を助けるという世界観がもともとありません。
「私も異常だけど、あなたも異常ね」から始まり、でもそれは「実は私たち意外と正常かもよ」と表裏一体だったりします。
自傷したことない人と同じになることが目的ではないのです。
でも、自傷しなくても大丈夫だよ。と思います。
対等だから説教しないなんてこともないです。
対等だから、信頼して説教することもあるかもしれません。あんまりしないけど。
対等とは、あなたの人生はあなたのものだというだけのことです。