子供や自分を医師に診てもらって、「うちの子に(私に)〇〇障害の診断がついた」と言う人と、「うちの子は(私は)〇〇障害だった」と言う人は、捉え方がかなり違うように思います。
生物医学(身体の医学)の診断は多くの場合に原因とも対応しているようですが、精神医学の診断は原因を言い当てるというよりは、どちらかというと「症状群に名前をつけたもの」や「作業仮説」のようなものであるように思います。前者は疾患単位、後者は類型とか症候群と呼ばれます。
そのようなわけで、診断を受けたときに「原因が解った」と捉えることを私は安易にはお勧めしないのです。
福祉サービスや配慮へのパスポートになってる
支援や対応が必要だと判断するのが今日の診断であったりもします。それによって配慮されたり、支援を受けたり、名誉が守られたりします。それは「この者は支援/配慮が必要である」という判断が目的であって、「この者は病気である」というのは手段的なところなんですね。
たとえば、病気の原因や症状があったとしても困っていなければ障害にならない診断名もありますし、いまのところぴったりの診断名がない障害もあります。
つまり、診断は福祉サービスにつなげるための手続きという側面があるんですね。
とくに精神の場合は個別性が強いので、注意が必要。
診断名は便利ではあるが、そのクライアントに具体的に生じている問題を見えなくしてしまうことが最大の問題である。
『心理療法の交差点2』第四章 若島孔文
診断は洞察力を制限する。それは、一人の人間としての他者に関わる能力を弱めてしまう。ひとたび診断を下してしまうと、その診断に会わない患者の兆候に対しては見逃しやすくなり、最初の診断を固めるような微妙な兆候にも過剰に注意を向けるようになるのである。
『ヤーロムの心理療法講義』アーヴィン・ヤーロム
「あなたはPTSDです」と専門家に言われた人は、PTSDの症状がどんどん出やすくなるということがあるそうです。そうでなくても、自分はトラウマだと思って生きることは、生き方に影響します。良くも悪くも。
この話の難しいところは、「それじゃあ、その人たちは仮病だっていうのかよっ」って怒りだしたり、逆に「そうだ、仮病だ」と言い出す人がいたりする(かもしれない)ことです。
また、診断によって助かった人が、「私は診断によって救われた。診断の悪口を言うな」と怒りたくなるかもしれません。
実は私も診断によって助けられたことがあり、その手続きを通して「自分は悪くなんだ」と思うことができました。自分を責めるのをやめるきっかけにもなったんですね。ですから、診断はありがたいと思う人の気持ちは察します。
ラベルは外にある
そのうえで、私は、現代の診断マニュアルでいえば〇〇障害に分類されるということであって、私に起きていることは唯一無二の私なんだということも大事にしたいと思います。〇〇障害らしく生きる必要を背負いたくはない。
名づけるという単純な行為(中略)これはわれわれに与えられた特別な恵みでありつづけ、ときには呪いにもなった。診断の過剰はわれわれのDNAに刻み込まれている。
『〈正常〉を救え』アレン・フランセス(DSM-IV作成委員長)
診断をするなと言っているのではなく、診断名はその人そのものの外にあるものだということです。
しかし、個別性は承知しながらも、なにかしらの分類がないと知識の集積ができないとうのも事実だろうと思います。
そして、この分類に名前を与えることによって、膨大な情報を簡潔にまとめ伝えることができ、さらなる知識の集積が初めて可能になる。
「精神医学とは」古川壽亮教授『標準精神医学第7版』
精神療法を学んでいる現代の学生たちは、「診断」を過度に強調する環境に置かれている(中略)道理にかなっているし、効率的に見える。しかし、現実の前ではほとんど何の力もない。むしろこれは、法律のように無理やり科学的正確さを人間に当てはめようとする錯覚に基づいた試みを表していて、価値もなく、可能なことでもない。
『ヤーロムの心理療法講義』アーヴィン・ヤーロム
「ほとんど何の力もない」というのは大袈裟な気がしますが、ある痛みを伴う場面によっては言いたいことはわかります。「ほとんど何の力もない場合もある」くらいでしょうか。
ある発達障害者家族の会の幹部の方が講演で「発達障害であるか、ないかを問題にしていたら、うまくいかない」と言っていました。つまり、あることが出来ないという事実に対して、発達障害なら許す、そうでなかったら許さないという態度では、その人そのものを応援することはできないという意味だろうと思います。
※ただ、発達障害に関しては脳機能としての原因が解明されつつあり、各自がどんな障害なのかを知ることも生きる戦略として重要になってきています。そのような場合は原因と捉えるのも悪くないかもしれません。1
精神保健に関しては、診断名はその人を社会(とくに福祉)とつなぐためのものであって、その人の中に何が起きているかということは、その手続きとは別に柔軟に探究されるほうがよいと思います。
あるトランスジェンダーが(出生の身体は女性、心は男性)が男性として生きようと奮闘するドキュメンタリーがありました。その母親が性同一性障害という診断名に出会い、「あーこれで原因がわかった」と思ったと言っていました。ところが、男性への性適合手術のあと、その本人は「やっぱり自分は男じゃない」と言い出したのです。それに対して、大人たちは一貫性がないと問題視するのですが、本人の友人たちは「〇〇ちゃんは〇〇ちゃんだ」と言うのです。つまり、診断はその時点での判断であって、客観的な原因ではない(とは限らない)のです。
たとえばアダルトチルドレンというのが診断名にならなかったのは、よかったと思います。
「たくさんの自分に似たような人たちが生きているのだ。その情報を参考にして幸せになろう」と検索キーワードとして活用するのがよさそうに思います。
参考リンク
- 精神医学における類型と疾患単位―「実在するもの」と「そのように呼ぶもの」 | メディカルノート
- 『精神科診断に代わるアプローチ PTMF』メアリー・ボイル/ルーシー・ジョンストン
- 『〈正常〉を救え』アレン・フランセス(DSM-IV作成委員長)
- 「複雑性トラウマ」と「見えにくい暴力」 酔いどれカウンセリングセミナー55 | YouTube
- 発達障害「困ってないなら診察不要です」 「規格外」の人が何かを成し遂げる | PRESIDENT Online
- 河合隼雄『心理療法序説』1~3章