心理セラピストが読み解く、映画『夢』(黒澤明)

今回は黒澤明監督の映画『夢』を観てみたいと思います。

自然破壊への警鐘のようなオムニバス形式の映画です。そのテーマの意図はすっ飛ばして、心理セラピストならではの視点で案内してみたいと思います。

見どころ1:トラウマの外在化

戦後日本に帰還した中隊長が戦死した部下たちの亡霊と出会うお話です。

この中で犬が出て来るのですが、これは何でしょうか? ストーリーに直接関係のない目立った存在は心理セラピストとしては気になります。

Kojunの解釈では、犬は外在化された罪悪感なのではないかと思います。部下を死なせてしまったという罪悪感がトラウマになっているというお話だよっていうことなんだろうと思います。

犬は爆弾を背負っていますから、実在の犬ではなく幻なんでしょう。吠えてますよね。

自分を責めるような心の問題にさいなまれる人の対処法として、脱フュージョンというのがあります。

現代人にありそうなのは、「私は失敗したあ」とか「私はダメだあ」とか「恥ずかしい」とかでしょうか。

この映画の場合は「俺は部下を殺してしまった。自分だけ生き残ってしまった」という罪悪感ですね。

脱フュージョンというのは、自分自身とその問題(ここでは罪悪感)が一体化している状態を抜け出すことを言います。Kojun流でイメージを説明すると、こんな感じです。

「俺は部下を見捨てて生き残ってしまったあ」

  ↓

「『お前は部下を見捨てて生き残りやがって』と責める獣が俺の中にいる」

みたいな感じです。「俺」と「獣」を分けちゃうんですね。

同様に「私は失敗した」→「『お前は失敗した』と責める声が自分の中にいる」とかですね。

希死念慮なんかだと、「死にたい」→「『死んじまえ』と叫ぶ獣が自分の中にいる」とかですね。

脱フュージョンすれば、客観しできるわけです。すなわち、こうなるとその獣を飼いならすことでサバイブできるわけです。

さらに、その獣のイメージを自分の外に出す(身体の外にあるかのようにイメージする)のが外在化だと思うとイメージしやすいでしょう。

外在化すると、イメージワーク的に扱うこともできます。たとえば、それが暴れるなら鎖をかけたり、抱きしめたり、追い払ったり、説得したりなどです。

そういう意味では、亡霊たちも外在化された罪悪感や部下たちへの想いでしょう。

そのようにして中隊長は自分のトラウマをなんとか生き延びているという様子であるように、Kojunには見えます。

心理セラピーでも外在化したイメージとの対話などを行うことがあります。

そのように解釈してみると、しっかり話しかけることや、「回れ右っ」っと力強く言い放つことなどは意味深いように思います。

また、犬が最初と最後に現れることは、フェルトセンスを大事にしていることや、トラウマが一発で解消しなくてもよいというような優しい意味にも思えます。犬に怯えながらも、取り乱さずに生きることは十分にサバイブでしょう。

見どころ2:逆調節

画家ゴッホの強迫的な「描く」ことへの執着が描かれています。

「絵になる風景を探すな」が印象的です。心理セラピーにおける「いまここ」の観察によく似ています。

若い画家がゴッホに耳のことを訊ねると、ゴッホは「自画像の耳を上手く描けないから、耳を切ってしまった」と言います。

これはトラウマで起きる過剰適応に似ています。ゴッホにとっては「描かれる」ということが揺るがない信念なので、その信念を守るために、「上手く描く」必要があるのですが、それができなかったので「顔の方を絵に合わせる」ということが起きたのでしょう。

すなわち、被害トラウマの人は「この世は危険だ」と信念の過剰調節をすることがありますが、それが上手くいかなかったり、誰かに受け止めて貰えそうになかったりすると「私が不注意だったのが悪いのだ」という逆の過剰調節(過剰同化とも言う)が生じることがあります。

上手く描けないことを赦すということがトラウマの癒しだとすると、自分の反応が調節なのか逆調節(同化)なのか、すなわち世界観を変えてしまっているか、自分観を変えてしまっているかを考えてみることが役に立つかもしれません。

ゴッホには大きなお世話かもしれませんが。

見どころ3:狐の嫁入り

映画冒頭の狐の嫁入りはお勧めです。これはこのブログを読む前に観た方がよいかもしれません。

この編を観てどんな感じがしますか? どんな感情が沸きますか?

映画監督の趣旨としては自然界の神秘を畏れるべしというテーマなのかもしれませんが、Kojunは分離-個体化を連想しました。

赤ちゃんが生後十数か月かけて母親から分化してゆくプロセスのことですが、大人の心理セラピーで心が育つ/回復するときにも似たようなプロセスがあります。

このお話は、恐い話、厳しい話のようですが、なんだか気持ちいいというか、ワクワクする感じもするかもしれません。

主人公の子供も泣いてはいません。

門が閉められてしまう厳しさは、母親は自分とは別の人間であるという分化の痛みを表現しているのだろうと思います。

生まれただけでも儲けもの、なにも怖くないのかもしれません。命が自分の命になるというお話のように見えます。

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