「死ぬな」と言うのが対人支援とは限らない

私はご本人からの依頼しか個人セッション(カウンセリング)を提供していませんが、「あの人を助けてください」と言われることはたまにあります。

「私の息子が死にたいと言っています。カウンセリングで止めてください」というご相談。

こういうのは引き受けません。息子さんにお金を渡して、息子さんが依頼してくるなら引き受けます。

そこでもうひとつ確認します。「息子さんがクライアント(来談者・依頼主)ですから、お母さんのためのセッションはしませんよ」と。つまり自殺を止めるためのセッション(カウンセリング)はしないということです。

そこでお母さんは息子さんに私を紹介することをやめる場合もあります。

お母さんの望みは自殺を止めることです。ですから自殺を止めてくれないカウンセラーに価値はありません。しかし、それはお母さんの望みであって本人の望みではありません。

社会的にも自殺を止めることが善しとされています。しかし、私は本人に依頼されたセッションしかしません。

よく勘違いされるのですが、セラピー活動は社会正義のためにやってるのではありませんので。

本人と話すことができたら、こんなことになる場合があります。

※複数のエピソードから再構成して単純化した仮想事例です。

本人「僕が自殺したいんだ。いいじゃないか。あんたらに止める権利はない」
私「そうですね。私に止める権利はありません」
本人「僕が自殺するのは僕の自由だろ」
私「はい」

※実際はもっと複雑かつケースバイケースです。安易に真似しないでください。

本人「お母さんが痛いねと言えば僕は痛がった。お母さんが嬉しいねと言えば僕は嬉しがった。僕の気持ちはお母さんが決める。でももういやなんだ。僕はお母さんの空想ではない。僕はお母さんの所有物でもない。僕には僕の心があるんだ。お母さんがどう言おうと、嬉しいときは嬉しいし、嬉しくないときは嬉しくない。それはお母さんが決めることではないんだ。そのことを証明するためなら、なんだってやりたい。僕は自殺して、お母さんのためのロボット人形ではないことを証明したい…」
私「そうね。命と引き換えにしてでも、証明したいわね」
本人「僕が自殺したら、あんたも困るだろ」
私「困ってもいいわよ」
本人「そこまで言うのはあんたが初めてだ。僕には僕の心があるんだ。自殺するなとか、誰も僕に強制できないんだ」
私「そうね」

そして、ご本人は「自分の心」があることを認められる体験をし、自殺してそれを証明する必要がなくなります。

※しつこいようですが、実際はこんなに単純ではなく、いくつかのプロセスが必要です。

自殺の意味を認めてもらうことが自殺を防ぐことがあるってことね。ただ、これは方法論の話ではないので方法として真似しちゃだめよ。誰が言うかが重要なの。

「死んではいけません」と言ってもらうことで助かるケースもあります。だから、言う人のキャラによっても言葉の効果は変わります。私は多様な対人支援者がいることか必要と考えます。

さて、お母さんの望みは自殺をとめること。それを叶えようとすると、本人の苦しみは増します。大事なのは自殺を肯定するか否定するかではなくて、それはお母さんの望みであって本人の望みではないということ。

親の望みを叶えようとすると子供が不幸になる。そんなパターンは他にも多くあります。

そのことに人は気づかず、しかも気づいた人は悪者にされます。

だから、セラピストは悪者呼ばわりされるのに慣れてたりします。

この記事にも怒る人はいると思います。でも、ある人たちには、この記事がちょっぴり救いになると思います。批判されない安全なところから、そこには届かないのです。

世間からよい人だと思われたいなら、セラピストにはならないことですね。

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