「変わりたくない」のではなくて「矯正されたくない」のだ

心理支援者(セラピストやカウンセラーなど)に相談に行くとこと躊躇する理由に、支援者に自分を変えようとされそうで嫌だというのがあります。

そこで「聴くだけ」という傾聴スタイルがカウンセリングの主流になったりしてきたのですが、一方では聴いてもらっただけでは解決しないお悩みもあります。

変化を手に入れたいけれども、矯正されるのは嫌でしょう。

隠れ家と冒険

さまざまな心の回復プロセスに共通して、次の二段階があるように思います。

1.ありのまま受け止めてもらうフェーズ(傾聴スタイル、コンテインなど)
2.行動やチャレンジのフェーズ(アドバイスやトレーニング、認知修正)

ちなみに、私が「隠れ家と冒険」と呼んでいるのは、これを何度も行き来するスタイルのことです。

さて、ここで注目したいのが、行動やチャレンジのフェーズです。

先の記事でもこのようなことを書きました。

頑張ることは心理的に良い影響がある。

しかし、他者から「頑張れ」と言われることは、心理的に悪い影響がある。

多くのカウンセリング流儀で「指示的なこと(こうしろ、ああしろ)をしないほうがよい」とされるのも似ているかと思います。

他者から「頑張れ」と言われることは、「あなた頑張ってませんね」「頑張らないとあなたを見捨てますよ/非難しますよ」という意味が含まれていてたりします。支援者はあまり意識しないかもしれませんが、なかなか頑張れないでいる当人にとっては、これはちょっとした賞罰による行動を促されているような状態なのです。

そこはネズミじゃねえんだよ

「悩みを相談すると矯正されそうで嫌だ」という感じのベースには、人の行動は罰と報酬で変化すると多くの人たちが信じていることがあるように思います。

スポーツ・トレーナーから「精神的な問題をかかえた人たちを甘やかすな」と言われたことがあります。一般の人の中にも「甘やかしすぎだ」と言いう人がいます。

つまり、世の常識では、罰を与えないとダメだというわけです。私は、これに猛烈に反対してきました。

オペラント条件付けが安易に子どもの躾けや自己啓発などに応用されることを私は嫌っていました。実際にその現場を体験してです。実験ネズミと人間を一緒にするなと。

※「廊下に立っていなさい」というようなタイムアウト法、禁煙のために苦しい喫煙を体験させるなど、あります。効果がないとは言いませんが、それで幸せにならなかった人にも会ったことあります。

※ちなみに、オペラント条件付けでは、行動を減らす弱化として、快を奪うのはpenalty、不快を与えるのはpunishmentとして区別します。

なお、行動分析に基づく行動変容技法は必ずしもオペラント条件付けの安易な応用ではなく、オペラント条件付けを解除してゆく発想など現実的なものがあります。たとえば、そこでは問題行動を減らすために罰を与えるということは推奨されていなくて、問題行動を維持している報酬(強化子)を取り除くというようになっています。これについては人間にも機能しそうです。

ただし、支援者や教師の「意図」が悟られた場合、それは「報酬の取り除き」という罰であると捉えられる可能性があります。

そこで、大人については罰方式に限らずどのような行動変容技法であっても、ネズミじゃねえんだよ反応が出る可能性はあると思います。それが私のクライアントたちの「支援者は私を変えようとするからイヤ」という声なのだと思います。

とりわけ、暴力や支配を受けてきた人にとっては、支援者の意図に適うように/支援者の目的を達成するために自分が変化するように促されるのは、その手法が協力であるほど暴力的に感じることがあります。これは「力とコントロール」というテーマとして、行動変容より優先して扱われるべきものです。

というわけで、クライアントを実験動物のように「刺激-反応」のみで捉えるトンネル視的な「行動主義」には私は賛同しかねる立場なのですが、「徹底的行動主義」には好感をもっています。それは支援者や治療者の行為も「刺激-反応」として条件付けられたものだという視点にまで達します。「ネズミだよ、支援者/治療者も」ですね。そこまで徹底的なら安易に他の視点を排除しないでしょう。

実は、ネズミの実験で有名になったのも、徹底的行動主義を唱えたのも同じ人物スキナーです。

上に述べたように、またこのあと述べるように、支援者の意図が影響することや、クライアントの過去や世界観を考慮に入れることは、「機能的文脈主義」と呼ばれる視点の一例です。これも徹底的行動主義です。

とはいえ行動変容の戦略が必要な場合もある

私は心理セラピストとて、マイノリティやウーンデッドの当事者であることもも活かして、上記の「受け入れてもらフェーズ」を実践してきました。しかし、それだけでは、なかなか進まないということも経験しています。

「受け止めてもらう」だけで自然と変化が生じるケースもあれば、変化を手に入れるには「行動やチャレンジのフェーズ」を意識的に取り入れる必要がある場合もあるということです。

心理セラピーでは深層心理に刷り込まれた信念を解消することによって、心を自由にしてきました。そうすることで、人は新たな自分を生き始めるというのが私の心理セラピー(短期療法)の主な成功パターンです。しかし、もっとじわじわと時間をかけて心を育てる必要がある場合があることも見えてきました。

人間はネズミではないけれど、ネズミを含んでいるのでしょう。おそらく進化の過程で。

ネズミよりも文脈の影響が大きいと捉えるとよいかもしれません。

人為か自然か?

*

この論文は罰によって問題行動を減らすこと(弱化オペラント条件づけ)についてのものです。私は行動分析理論のオペラント条件付けを嫌っていました。実験ネズミと人間を一緒にするなと。ですが、この論文の「自然環境」という言葉に1つのヒントがあるのではないかと思いました。

市居氏が被災地支援の活動や人々から発見した「エコメンタルな実践」では、自然に接するということが挙げられています。

たとえば「雨が降って焚火が消えてしまう」「急に風向きが変わって、うまく対処しないとヨットが倒れる」というようなことを体験することで、困難を受け流しながら進む心のコツのようなものが育つと言います。

自然に触れて得られるままならない体験と、人為的な「罰」は全く異なる効果を得るのではないかということです。(参考:親の世界から、大人の世界へ

面白いことに、苦痛というほどの強烈なネガティブ体験でなくても、自然の力に触れることで、その力がついてゆくようなのです。

しかし、たとえ自然現象だったとしても、「ほら、雨具を用意してなかったから罰があたった」のように解釈すると上手くいきません。また、苦しませることを意図として企画した根性論的なキャンプでは、上手くいかないだろうと思います。

実際に私が市居氏のキャンプで経験しのはこのようなことです。ハイキングのときに身体の弱い私は頻繁に休憩しました。グループは私にペースを合わせて休み、それでもハイキングを楽しんだのです。私は、無理することの不快、休み過ぎることの不快も体験し、適度に頑張る練習をしました。助けを求めることも、頑張ることも同時に学習しました。

それは、昔の企業の新人研修の山登りなどとはかなり違います。

そのハイキングの目的はスパルタではなく、楽しむこと。罰を与える人間はいません。楽しむためなら登山の中止もいとわないわけです。最も楽しく過ごそうとすることが、いつもならやらない行動をしたり、いつもならやめられない行動をやめたりへと繋がっていったように思います。

参考:
「自然あそびで子どもの非認知能力が育つ」長谷部 雅一 (著)

人為的な罰は内在化される

これは経験的な感覚なのですが、人為的な罰というのは意図があり、罰や批判を受けた人がその意図を内在化してしまうようです。

たとえば、就労しないと収入が得られないという自然現象は単なる因果関係です。

就労しない → 収入が得られない 

※行動主義心理学では「しない」は行動として扱わないという基準があるようですが、ここでは分かり易さを優先します。

これは、比較的簡単に

収入を得たい → 就労する

に裏返ることができます。

しかし、人為的な罰やペナルティが内在化していると、

就労しない → ダメな人間 → 収入が得られない

あるいは

ダメな人間 → 就労しない → 収入が得られない

という図式になってしまいます。収入が得られない理由がダメな人間だからというようになってしまうのです。

そして、就労の目的が収入を得ることではなくて、ダメ人間から脱出することとなります。就労というものがとてつもなくハードルの高いものとなります。

たとえば、少しだけ働くことは(短期とかパートタイムとか)は収入的には少しのプラスですが、ダメ人間脱出的にはマイナスにさえなります。

ついには、ダメじゃないことを証明するには、就労せずに収入が得られる必要すら出てきます。

自然現象というのは、「ダメ人間」のような批判・評価が発生しないということを意味するでしょう。

しかし、世間は人を変えるために人為的に罰やペナルティを与えたくなります。

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