人を批判したくなったとき

Hate or Wish

コメディアンの浜ちゃんがブラックフェイス(顔を黒く塗る黒人仮装メイク)をして、黒人差別だと批判されています。

「傷つく人がいることを知らないなんて、日本の恥だ」

「目を疑います」

また、それに反対の意見も。

「黒人差別の意図はない」

「騒ぐ方こそ差別感ある証拠だ」

この様相、人間関係の問題に表れる普遍的なパターンがうかがえます。

私はというと、差別かどうか言ってるものはいずれも同意しかねます。

普遍的なパターンとは、人は被害者、加害者、裁き屋のいずれかの役を引き受けることで、平和を手放すというもの。

「差別だ」(→差別している人を恨もう)

「差別ではない」(→差別だと言っている人を恨もう)

いずれも誰かを裁いたり、恨んだりする方へとエネルギーが向かう。

問題を解決すること=悪を正すこと という枠組みを抜け出さない限り、この連鎖は続く。

被差別の苦しみを減らしたいのか、大義名分のもとで悪人を攻撃したいのか。

Hate or Wish ?

悪を責めるのでなく、何を望んでいるかを語る能力が重要です。

でも、どちらでも選べます。

カープマンのドラマ三角形

カープマンのドラマ三角形と呼ばれる関係性(被害者、迫害者、救済者)は、配役を変えながら憎しみの連鎖を増やしてゆきます。

救済者が次の迫害者となると、迫害者が次の被害者となり・・・などです。

※場合によっては、被害者、加害者(迫害者)、裁き屋(救済者)というのがイメージしやすいかもしれません。

貧しい町人、悪代官、水戸黄門という構図は人間の心理にピタッとはまるんですね。

差別を叩く人は「救済者」という配役を引き受けることで「迫害者」となってゆきます。

ポリコレ(ポリティカルコレクション、政治的な正論)も「救済者」を表現した言葉かと思います。

心理カウンセラーも「救済者」の立場を依頼されることがあり、その配役に乗らないことが必要だったりします。

参考

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

※当サイトの事例等は事実に基づいてはいますが複数のケースや情報を参考に一般化して再構成、フィクション化した説明目的の仮想事例です。

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