「二次利得」という言葉で人を裁かないで

二次利得という言葉

心理支援の分野に「二次利得」という言葉があります。これは病気やトラブルを抱えている人が、それによって得ていること(優しくしてもらえる、仕事をしなくていいなど)のことです。

本人が病気やトラブルを手放そうとしない原因を説明するために使われます。

「二次利得」、ときに人を馬鹿にした言葉だと思うことがあります。

※良し悪しの判断しないニュートラルな立場では、単に「好ましくない行動や状態にも、肯定的な側面がある」という意味で使われる場合もあります。

魂の叫びがきこえないと、二次利得にしかみえない

ところで、私はこのように言うことがあります。「ウツの人はウツを治したいんじゃないんですよ」

そうすると、多くの人は「ウツの人は二次利得があるから治りたくないのですね」と解釈します。多くの人はさほど悪意はなくても、トラブルを抱えている人を下に見ているので、そのような意味に聞こえるのです。

私の「ウツの人はウツを治したいんじゃないんですよ」の意味はそうではなくて、「ウツの人にとっては、ウツを治すことよりも大事なこと(たとえば生き方を見直すとか)がある。本人はどこかでそれに気づいている」という意味です。

「あー、この人は二次利得にしがみついてるから治らないんだな」とか思うのは、魂の叫びがきこえていないということかもしれません。

たしかに、二次利得という現象はあります。何を二次利得と呼ぶかは、「直そう」とする支援者の都合で決まっています。

その結果、支援者にとって都合よくない人を裁くため、使われることの多い言葉とも言えます。

例1

ある人は生活のために納得できない業務命令(たとえば下請け虐め)に従ってきて、ついにウツなってしまいました。

この場合、ウツを治すより大事なことというのは、「勇気を出して、納得のいく生き方を探せ」という自分自身からのメッセージを受け取ることかもしれません。それは大変なことです。むしろ、納得いかない仕事をすることで得ている安定や収入こそが二次利得なのかもしれません。それを手放そうとしているのです。

例2

ある人は、不調になったら夫の顔が優しくなりました。以前は夫はいつもピリピリしていたのです。

夫が優しくなった、その二次利得を維持するために、不調を手放せなくなった? そうとも言えます。では、不調であっても夫が優しくなければよいのでしょうか。

「夫が優しくなったのはよかったね」というお話をしていると、無意識的に夫の体調を心配していることが明らかになってきました。実は、後の健康診断によると夫は常にピリピリしすぎて脳梗塞になる可能性もあったのです。

二次利得と捉えると、それを無くそうという発想になります。

優先利得と捉えると、なぜ優先されているのかとう発想になります。

実は支援者側の防衛機制ともいえる

二次利得という概念を通して人を見ることをやめなさいと言っても、なたはやめないかもしれません。それはしかたないかなと思います。それは支援者や治療者が傷つかないための防衛機制(知性化)だからだと思います。

支援が上手くいかないことを正当化するという心理が働いているということです。もちろん支援者も人間ですから、適度な言い訳はさせてもらう必要はあります。ですので、ここで支援者を裁いてしまってはもともこもないのですが。

「二次利得」は治療者のための言葉なのです。もし、それが本人のための言葉なら、それは本人が最も優先しているのですから「一次利得」とか「優先利得」と呼ばれるでしょう。

支援者探しの視点

その人の魂の叫びみたいなものが見えるか? 深層心理のセラピストには必須ではないかと思います。

しかし、もしあなたがとてく苦しいトラブルを背負い、そこから抜け出せない当事者になったとき、二次利得という概念を通して人を見ない支援者を探してみるのもよいでしょう。

あなたは二次利得を手放せない自分自身を裁くこともあります。そんなときは、あなたを裁かない支援者が必要になります。

それを二次利得と呼ばない支援者に出会えば、あなたが何を得ようとしているのかについて話すことができるでしょう。それを二次利得と呼んでしまっては、大切な話ができないのです。


Kojunの本人中心アプローチについては「スタンス(当事者中心/実存主義)」をご覧ください。

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