ACTの「コミットメント」と「アクセプタンス」 – サバイバー的な視点と解釈

ACT(Acceptance and Commitment Therapy)という心理療法(の総称?)があります。これについて感情や実存を中心に扱う心理セラピストであるKojunが心理的困難のサバイバーの視点から解釈をしてみたいと思います。

※ここでは独自の解釈や想いを書きますので、一般的なACTの説明はヘイズ氏などの著作をご覧ください。

ACTの超概要

ACTでは次のようなスキル(プロセス?)の習得をしてゆきます。(入門用に少しアレンジしています)

今ここ

文脈としての自己
勝手な推測や想像やラベリングではなく、実際に起きていることを知覚できる、気づける
脱フュージョン困り事と自分が一体化しない
アクセプタンスコントロールできない事柄、避けられない痛みを受け入れる
価値自分にとって大切なことが何かを知っている、選べている
コミットメント価値に沿った行為が行えている

基本シナリオを書くとこんな感じになるかと思います。

アクセプタンス ← 脱フュージョン ← 気づける → 価値 → コミットメント

※ACTの六角形の図をご存じの方は、これが逆N字に見えるでしょう。

「気づける」により、脱フュージョンを体得し、アクセプタンスを実現。そして、「気づける」により、自分の人生の価値を選び、コミットされた行為を行動活性化してゆきます。

「気づける」はマインドフルネスなどのエクセサイズで支援します。

他にも「価値が明確になるからアクセプタンスが可能になる」とか、いろんな相互影響があり得るのですが、なんでもありとか言いますと何も分からないので、一旦はこの左右への流れを基本と考えると分かり易くなります。

アクセプタンス&コミットメントという名称なのですから、そう外してはいないでしょう。

「コミットメント」は体育会系ではない

まず気になるのはこの言葉です。

コミットメントなんて聞くと、ビジネス界の「成果を約束する」とか、自己啓発セミナーの「コンフォートゾーンから出ろ!」とかを連想しますが、そういう意味ではなさそうです。少なくとも私はそうはしません。

これは「やってよかったから、またやりたくなる」1みたいな状態のことです。

ACTの創始者ヘイズ博士は「結果が背中を押してくれる」と表現しています。

他者の要求に応えるためなどの理由で選んだ価値は「価値に沿った行動」に結びつかないことがデータからも示唆されています。2

そこで「価値」が効いてくるんでしょうね。でも、ビジネス界でも目標を従業員本人に決めさせたり、昔の自己啓発セミナーでも価値を洗い出すワークを先行させたりはしてきました。それとどこが違うのかというところが、ACTの見どころだと思います。

私の考えでは、それは背中を押されるのではなく、体験的に実感してゆくということだと思います。

たとえば、プールや海で遊ぶとき、最初は水に触れるのが冷たくて苦痛です。しかし、それでも楽しいから水に入ってゆきます。そんな感じなんだと思います。「きゃーっ、つめたーい!」という、それさえも楽しいって感じでしょうか。

ACTは体験(エクセサイズ)や喩え話(メタファー)を使います。私もこんなふうに、喩え話が得意です。そこは似ているかも。

その苦痛さえも楽しむってところを、自己啓発セミナーなんかではテンション上げることによってやっていたわけですが、そうではなく自分の体験だけを信じるっていうのがACTの特徴だと思います。

Kojunセラピーもテンションや勢いは使わないところは似ていますが、しいて言えばKojunセラピーはもっと誘導が弱いくせに、エクセサイズはイメージワークどっぷりです。

もともと生き延びるために必要だった瞑想や脱フュージョン実践、茶道や居合道の経験を経て、グループセッションでマインドフルネス的な誘導をやってきているためか、Kojun自身が「気づきやすい状態」や「脱フュージョン」は得意です。3

「アクセプタンス」は諦めるのではない

もう一つ面白いのはこの概念です。受け入れると訳すと受動的な印象になりますが、意外と能動的です。

変えられないものは変えようとしないという意味では、いい意味で諦めることでもあるでしょう。しかし、それだと嫌いなものを受け容れている感じがします。そうではなくて、痛みを感じることを許すみたいな感じだと思います。

先述したプールの水の冷たさのことと重なりますね。

ある意味では、アクセプタンスがブレーキ外しで、コミットメントがアクセルといった感じでしょうか。しかし、意外とアクセプタンスは能動的で、意外とコミットメントは受動的です。

そのブレーキは意図的に外さなければ外れません。「無視」というブレーキを外すには、「声を聴く」という積極性が必要なのです。

自動車はアクセルを踏む脚力で進むわけではありません。アクセルはエンジンに燃料が向かうことを許しているのです。帆が風を受けるように、受け取ることによって進むのでしょう。

アクセプタンスには2つある

これは全くの私見なのですが、2つのアクセプタンスがあると思っています。

一つは、起きてしまった感情のアクセプタンス。これは私が他のブログ記事にもたくさん書いている、ネガティブな感情もないことにしないことの勧めと似ています。あがり症の人があがることを否定しない、不安な人が不安を否定しない、とかです。

もう一つは、これから行動することで起きるかもしれない痛みのアクセプタンスです。先の喩えのプールの冷たい水に入るのはこれですね。

ACTでは「アクセプタンス」は「体験の回避」の反対語のように扱われています。

私に言わせると「感情の抑圧」と「体験の回避」ですね。ACTの教科書ではこれらがごっちゃになっているように感じます。私がなぜこの2つを別けて捉えるかというと、起きてしまった感情は抑圧せずに感じているけれども、行動には踏み切れないという状態があるからです。

参考

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

※当サイトの事例等は事実に基づいてはいますが複数のケースや情報を参考に一般化して再構成、フィクション化した説明目的の仮想事例です。

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