父性剥奪 – 「お前はきっと上手くいく」では上手くいかない

生き方に関するお悩みのなかに、自由に挑戦ができないというお悩みがあります。

ピンポイントで特定の行為や場所に対する恐怖症というわけでもなく、自由に行動できない。誰かの許可がないと行動できない。そんな感じでしょうか。

父性剥奪

一見すると、失敗が恐いというような振る舞いに見えます。全般性不安のような症状かもしれません。

なにもかも恐い、この世が恐いみたいな感じは、愛着スタイルの不安型にも似ています。

「愛着障害(母性剥奪)」などは、主に母性による内なる安心基地が欠けた状態ですが、Kojunはそれに似た父性に関するテーマがあると気づいて「父性剥奪」と呼んでいます。

自分らしく行動したいという願いをもってグループ・カウンセリングに参加される方などに多いのですが、「あなたは『間違ってもいいからやってみな』と言われたことがありますか?」と問いかけると、ボロボロ涙を流す人がけっこういます。

これは母性による安心基地、すなわち逃げ帰る場所である「こわかったね、傷ついたね、よしよし」とはちょっと異なり、「もし失敗したらオレ(父親)が助けてやるから心配せずに、やってみな」というセーフティネット、後ろ盾となるような安全基地です。

「お前が思う通りにやってみな(間違えても大丈夫だから)」が心理的なセーフネットを育んでくれるのを、私は「父性的な安全基地」と呼んでいます。それが幼少期に満たされることなく、心の困難を抱えてしまうことを「父性剥奪」と呼んでいます。

※「安心=母性、安全=父性」という捉え方もあるかと思います。最近は母性剥奪と父性剥奪までを含めて愛着障害と呼ぶようになってきているようです。ですが、Kojuの心理セラピーにおいては区別します。

関連記事:母性と父性

自己効力感との違い

学童期に育まれるとされている自己効力感は、「できる」「できた!」という体験や感覚です。それを刺激するには「きっと上手くいくよ」という励まし方になります。

ですが、「失敗しても(間違えても)いいからさ」というのは、真逆の励まし方です。

大人の世界でも「きっと上手くいく」と言ってくれる人はたまにいますが、「失敗してもいいからさ」と言ってくれる人はなかなかいません。

その安全な失敗体験は、自己効力感に先立つものだと思います。なぜなら、失敗や間違いが過剰に危険視されていないと方が、成功体験を積みやすいからです。

サーカスの空中ブランコでは、まず落ちる練習をして「落ちても死なない、怪我しない、叱られない」を十分に体験してから、飛び移る練習をするそうです。理にかなっていますね。落ちる練習をしていない人に「やればできる」とか「うんうん、できたね」と褒めるとかしても上手くいかないのは想像できます。

「お前はきっとうまくいく」ではなくて、「うまくいかなくても大丈夫だから」ですね。

父性的な安全基地をスキップして、自己効力感を育てると、たとえばこんな風になります。素人のコンテストでは活躍するけど、プロのオーディションではボロボロになるみたいな。プロの世界には自分より優秀な人がいたり、失敗があり得るような実践がありますので、「勝てる」や「上手くいく」だけではないからです。

何を望まれたか

親(ここでは特に父親のイメージですが)は、「子が間違わない(失敗しない)ことを望む」でしょうか、それとも「たとえ間違っても(失敗しても)子が思い通りにすることを望む」でしょうか。

あるとき、子は親(父親)に逆らって意思決定をします。そのとき大事なのは、親よりも子の判断が正しいということではなかったりします。

たとえば、昭和の親が「大企業や公務員が安全」と教えるのに対して、子が「いやいや今の時代は起業だ」と判断して行動するとします。カウンセラーが相談者(子)に対して「あなたは間違ってないと思いますよ」と応援したりすることがあるようですが、父性的な安全基地の観点からすると「間違ってない」というより大事なことは「間違ってもいい」ってことなんですね。「間違ってないと思いますよ」という応援も必要ではあります。ですが、相談者が言いたいのは「僕は間違っていないでしょ」なのか、「間違ってもいいから、自分で決めたかったんだ」なのか、私はそこに敏感でありたいのです。もし後者なら、永年の深い悩みが解消へ向かい始めた瞬間ですから。

もしかしたら不登校の参考にも

余談になるかもしれませんが、不登校についても同じようなケースがあるのではないかと推測しています。「学校へ行くべきだ」が上手くいかない(場合が多くある)のはよく知られています。そこで「学校に行かなくてもいいよ」も一人歩きしていますが、だがしかし。もしそこに父性剥奪がある場合だったらと仮定するなら、「学校に行かないことで不利や苦しみを背負うことになるかもしれないけど、それでも学校に行かないというなら、それを応援するよ」というのがカギになるかもしれません。不登校の父母さんと話してみると、よく「直すか直さないか」の間でちょうどいいところを探そうとしているように感じます。「直す」も「直さない」も親が主体なのですが、求められているのは本人がやることをなんでも応援してくれる人なのかもしれないなと。「本人のため」じゃなくて「本人が自身のためと思うこと」をバックアップするのが父性ではないかと。

大人の心の問題を扱っていると、子供の頃の父性剥奪のテーマが出てきます。今の子供たちはもっと早くに警鐘を鳴らしているのかもしれない、とも思ったりします。

※追記:不登校は様々なケースがあるので、これは様々な可能性の中のある場合についての話です。

不登校に関する参考

  • 『子どもが不登校になったら親はどうすればいいのか』喜多徹人
  • 『不登校の理解と支援のためのハンドブック』伊藤美奈子

参考

  • 『事例でわかる! 愛着障害―現場で活かせる理論と支援を』米澤 好史
  • 『乳幼児の精神衛生』ジョン・ボウルビィ

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