私は日本でまだポリヴェーガル理論が広まっていなかった頃から、当時ひっそりと開催されていた講座などに参加して学んでいました。ですので、ポリヴェーガル理論に親しみを持っています。ポージェス博士のメッセージにも賛同するものです。私のトラウマ当事者、サバイバーの声を代弁する「正そうとしてむ上手くゆかない」というようなテーマも同じ意味です。
なんですが、いま対人支援職の間でポリヴェーガル理論が流行っていて、ふと気づいたことがあります。それは、神経科学(物質的な実体に還元される)としてのポリヴェーガル理論と、モデル論(現象を説明するための概念)としてのポリヴェーガル理論があるということです。
支援現場で使う枠組み(モデル論)として
支援現場では「わかりやすい、使えるポリヴェーガル理論」が求められていて、「凍りつきモード」「青モード」などの概念を用いて人を見ることが教えられています。たとえば、子どもが頑張るように追い詰めたり叱ったりすると逆効果になるなんてことを「凍りつきモード」とか「青色」とかで説明するんですね。
それは概念モデルとして役に立つのですが、それを神経科学的に「背側モード」などと呼んでしまうのは疑似科学的な匂いがします。背側迷走神経が活性しているっていう意味に聞こえますが、子どもが緊張して固まっているっぽい場面で、実際に背側迷走神経がどうなっているかが見えるわけではありません。見えてもいないものを、見えたつもりになるって、ちょっと嫌な予感がします。
これは「あなたは左脳の使いすぎですね」とか言うのも似ています。ウツのぐるぐる思考などに対して、左脳が暴走していると言う人がいましたが、実は実際に測定してみるとそのような状態の人は右脳が活性化しすぎていることがあるようです。また、マインドフルネスが「右脳活性」などと呼ばれることもありましたが、マインドフルな状態はデフォルトモードという右脳活性とは別の状態であることがわかっています。
経験則を説明したいあまりに、科学の用語を使いたくなる。不思議な現象はなんでもかんでも量子力学に支持されてることにしてしまうみたいな。
トラウマの当事者感覚としても、まさに背側迷走神経が優位に働いているらしき体験(腰が抜けたり、暴力被害に肢体が固まって抵抗できなくなる)と、体験の記憶が恐怖となって行動できない/引きこもってしまう/言いたいことが言えないみたいなことと、まあ背側迷走神経の作用に似ているけどいろんな要素があるっぽいときというように、様々な体験があります。神経と体験の対応は慎重に柔軟に捉える必要があると思います。
現場の経験知を科学として説明したくなるが
子供や支援対象者への接し方を教える「使えるポリヴェーガル理論」の本を読んでみると、たいていは著者の経験に基づく知恵のようです。つまり、私たちはその先生の臨床経験を信頼してそのような本を読むのであって、神経科学がその正しさを証明しているわけではないと思うのです。
子ども(あるいはトラウマを持つ人)が緊張したり、固まったりしている(かもしれない)状態を「凍りつきモード」と呼ぶのは、その先生の経験知を分かり易く伝えるためのモデル論だと思うのです。ですから、「凍りつきモード」などは冷凍されていると誤解する人はいないでしょうからよいとして、「背側モード」と言うのは本当に背側神経が賦活しているかもしれないだけに、説明モデルの域を出てしまうじゃないかということ。
※実は「凍りつき」も神経科学の用語として使われるので微妙で、危ういです。ただ、ポリヴェーガル理論でも定義が変遷しているようですし、日常語でも凍りつくとは言いますから、「広義の凍りつき」があってもきいのかも。
そのモデル論はポリヴェーガル理論の影響を受けて、相似形ではあるものの、神経レベルで起きていること支援場面での視点の話は同じではないかもしれないわけです。
経験知と科学の間をとばすと、超常現象を量子力学で説明する疑似科学みたいになってしまう。
もう少し丁寧に言えば、「背側迷走神経を落ち着かせて、腹側迷走神経を賦活するような関りをすることが俯瞰的な態度としてはよいだろう」というのは有意義だとと思いますが、「そのときその子は背側モードになっているのです」みたいな言い方がされるのは理論に喰われて目の前で起きていることを軽視することになりそうだということです。これらはかなり違うことだと思うのです。
ただ、「(ポリヴェーガル理論の影響をうけた)〇〇先生の3モード理論」と言うと流行らないのに、「ポリヴェーガル理論による」と銘打てば多くの人が本を買ってくれたりするという事情もあるでしょう。
偏在するトラウマの背景にあるもの – 当事者よりも権威を優先すること
でも、実はポリヴェーガル理論が示唆している、責めたり追い詰めたりすることの弊害というのは、とうの昔から当事者たちが涙目で訴えてきたことです。それを無視し続けた人々が、「これは科学です」(ポリヴェーガル理論)と言ったら急に学び始めるって、進歩であるものの、悲しいことでもあります。
いまでも当事者たちの「分かってもらない」苦しみはあるのですが、そのような支援者たちは、当事者の声などに関心を持たないでしょう。地位の高い博士が言うこと、科学だよとお墨付きのあることなら耳を貸すってことです。
「使えるポリヴェーガル理論」を求める支援者の多くが、自律神経って何ってことに興味を持たなかったりします。本に書かれているエクセサイズや対人支援スタイルをやってみたら上手くいったというだけなら、経験測から作ったモデル論です。「自律神経を整えましょう」と「運気の流れを整えましょう」はどちらも経験測のモデル論です。どちらも役立つ可能性があります。
しかし、自律神経が何なのか知らずに、もしくは同様のテーマに関心のなかった人が、前者は科学だからといって取り入れるのは、権威主義です。それは社会的地位の高い者からの暴力を受けてトラウマになった地位の低い人たちを苦しめる社会的背景とよく似ています。トラウマを持つ人が社会と繋がりにくい感じというのは、当事者の声は権威より下だよってことと関係があるように思います。
これは「LGBTQを差別してはいけません」と習った人が、「あんたが女装しているのはLGBTQだからか? LGBTQじゃなかったら承知しないぞ」と言うのと似ています。実際にそのようなことを言う人はいます。
トラウマセンシティヴマインドフルネスを提唱するデイヴィッド氏はトラウマは偏在すると、社会がトラウマを創り出していることを指摘しています。
サバイバーの味方となるべく生まれてきた諸概念やメソッドが、普及する過程で権威化されたり、見えないことまで決めつける(見えたつもりになる)ことを促したりすることは、トラウマとの闘いの本質面だと思うのです。
当事者が実体験と照らしたときに、ポリヴェーガル理論と経験知は辻褄があうところが多いです。たしかに、背側迷走神経のメカニズムはトラウマの性質と関係深いものでしょう。しかし、トラウマについては未知なことの方が多いことを忘れてはならないと思います。
神経科学であることの興味深さ
ポージェス氏の本には「女性の高い声は人を安心させる」と書かれていますが、「ジェットストリーム・・・」(旧くてすみません)みたいな低い男性の声にも安心効果はあります。書籍に書かれていることと、実体験と一致しないことはたくさんあります。しかしそれでも、ポリヴェーガル理論は実際の神経系という物質的な実在に関する研究である点はとても面白いところです。ですので、臨床場面によい視点を授けてくれると思います。ただ、それでも私たちの身体は私たちの知識を超えたものである、その実物との対話ができてこその活用だと思います。
見てもいないものを見たつもりになるための枠組みとならいことを願います。
ポリヴェーガル理論の臨床現場への応用の中で、わかりやすい、すぐ役立つ類は、あまりにもトラウマや子どもの世界を知らなすぎた支援者や大人がこれまでの対応を振り返る反省の視点を提供するものだと思います。正しい答えを教えてくれるものと誤解されて一人歩きして、またいつもの「あなたはこうですね」にならないことを祈ります。なったとしても、サバイバーが自身を見失うことのないように願います。