これについては混乱があるようですので、私の意見を書いてみます。
PTSDとASDの区別
まず、PTSDは時間の経過とともに自ずと解消されてゆくものではないのですが、それはいわば定義のような側面があります。自ずと解消してゆくものは急性ストレス障害(ASD)と呼ばれて、区別されています。つまり、「PTSDは自ずとは解消されない」というよりは、「自ずと解消されないものをPTSDと呼んでいる」ということですね。ただし、「一ヶ月以上症状が継続するものは、自ずと解消されない」という傾向は背景にあるので、恣意的な定義に過ぎないとも言い切れないです。
ともかく、PTSD等のショックトラウマは、自ずと解消されずに残る性質があるということは言えると思います。長引くのは過去にしがみついているとかの性格によるものではない、「もう忘れないよ」「前向きに」とかいうことでもないってこと。
ところが、解消している人たちはいる
あるとき私が「私のクライアントは出来事から年数が経っている人が多いので、症状が一部解消していることがよくあるように思います」と言うと、権威のある先生が「PTSDは時間が経過しても治りません!」と注意されました。それは前述のような急性ストレス障害との区別を言っているのだろうと思います。
では、なぜ私のクライアントたちは一部解消しているのでしょうか? まあよくあるのは、侵入症状みたいなものは無くなったけど、回避や過覚醒、人間関係における独特のパターン(これはPTSDの診断基準にはないかもしれませんが)などがしつこく残っているというものです。また、クライアントとはなりませんが、ほぼ完全に回復している人たちもいます。
つまり、前述の自然解消しないというのは、「何も治療的なことをしなければ解消しない」という意味であって、治療的なことというのは、必ずしも専門家による治療や施術だけではないということです。
時間が経過する中で解消しているというのは、大まかに2つあるように思います。
自然にやっている自助努力
たとえば、PTSD治療法の一部に「現実暴露」というのがあります。苦手なモノや場所(たとえば、事件を連想させる場所など)にあえて少しずつ近づいて馴化(馴らし)を試みるというものです。トラウマで10年間も悩んでいる人は、それくらいのことは自分で思いついたり、社会生活の中でいやおうなくやっていたりすることも多いです。つまり、当事者だって無力無能ではないのですから、あの手この手で自助努力をしているわけです。
周囲との繋がりの力
被害者支援をしているある臨床心理士によると、周囲の人たちとの繋がりを通してPTSD等が回復してゆく人たちはたくさんいると言っていました。専門家が治すのではなく、そのような経過を見守るだけでよいのではないかとも。
自助グループや当事者コミュニティなどでも、「だいぶ良くなった」という人たちをよく見かけました。ならない人もいますが、なる人もいます。
専門家が全てを知っているわけではない
当事者の日常から離れた学術的すぎる専門家は、専門家に会いに来た当事者、研究機関と接点のある当事者ばかり見ているので、当事者は無力で無知な受動者のように捉えてしまうこともあるようです。しかし、当事者は「助けられる存在」以上のものです。
専門家の地位を向上するために「専門家にしか役に立たない」という印象を強調しようとする動きが強まる一方で、専門家の技術や知識よりも繋がりの中での癒しを重視する動きもあるようです。
私も暴力被害等の会話に触れることは多いので、すっかり克服した人たちからもエピソードを聴いています。まあ多少は、女らしさを出さないなどの影響は残っているのですが、何かから逃げるような必要もなく、幸せを掴んでいます。エンパス体質の私が暴力被害や性被害のクライアントの話を落ち着いて聴いていられるのは、そのようなサバイバーたちの克服可能、回復可能のゆるぎないサンプルを見ているからです。クライアントの力を信じる力のように言われることもあります。トラウマのセラピーは治療者にも負担がかかるなどと言われるのは、セラピストや支援者が自力で克服した人たちを見ていないので、「専門家である自分が失敗したらこの人は助からない」みたいな緊張があるからかもしれません。ちょっと話がそれました。
とにかく、専門家に治療されましたという以外に、自助と人間関係によって助かっている人たちはたくさんいるだろうということです。
「支援を受けた方がよい」と「支援を受けない人は助からない」は区別したい
近年では、トラウマ治療ができる専門家が不足しているとか、支援機関があるのでぜひ支援を受けてくださいとか、そんなことが言われています。ある調査によると、支援機関に相談していない人の方が割合が多いそうです。
ほとんどのトラウマサバイバーが支援機関に繋がることが、行政や研究者の描く理想のように感じることがあります。ただ、私はそれは「専門的な支援を受けない人は助からず苦しみ続ける」ということを専門家たちが信じているとしたら・・・・なんだか残念です。希望とかノーマライゼーション(「それは弱さではない、普通のことです」のように扱うなど)とか掲げていても、実際には当事者を弱者のごとく扱う心があるということです。深層心理に機微な私にはそこも感じられるのです。もちろん、そのような専門家たちにも悪意があるわけではないのですが。
では、私は専門家不要説を唱えるのかというと、そこまでのつもりはありません。支援機関による支援も無いよりもあった方がよいと思います。ただ、それだけが救うのだとは思わないで欲しいということです。
これは、〇〇療法だけが救うことができるとか、心理学部卒の人だけが救うことができるとか、医師だけが救うことができるとか、よく見かける支援者トラップです。なにか良い手段が開発されると、それ以外の手段を潰すことで、その良い手段に対象者を導こうとしてしまいます。個別に「この人にとってはこれしかない」とか、支援者の守備範囲として「このアプローチしかできない」ということはあってよいと思いますが。
つまり、専門的支援を避けずに検討することは勧めますが、専門的支援に依らず克服した人たちの存在を都合悪い例外として闇に葬ったりしないでほしいということです。専門的支援に依らずに克服した人たちのような当事者の存在は、専門的支援の技術よりも重要な位置にあると思います。専門的支援が最も上手く機能すのも、当事者が主体となるときだからです。当事者が自力で助かることはないと信じている人が提供する専門的支援には限界があると思います。