ACは親を恨むための言葉ではない

AC(アダルトチルドレン)という概念は、「苦しみを親のせいにするのでけしからん」と言われることもあります。「機能不全家族」というのも、どの家庭にもあるようなことまで病気のように扱っているという批判もあるようです。(「誰が悪いのか」という視点から離れるために、Kojunは「機能不全家族」よりも「家族機能不全」を使います)

どの家庭にでもある

そうですね。どの家庭にでもあるようなことだと思います。ですから、ACが異常だとか病気だとかは言ってません。心理セラピーでは、よくある普通のことを扱っているのです。

もちろん、普通の家族とは言い難いような珍しいケースもあります。

ですが、心理セラピーで扱う悩みというのは、それが珍しいから、異常だから、普通でないから扱うわけではありません。

よくもわるくも親の影響があるというのは当たり前のことだと思います。ですから、子どもに悪影響を与えていると心配している親御さんには「悪影響を与えない親なんていないかもですよ」と伝えています。

親を恨むために心理セラピーを受ける人はいない

私のクライアントが見たら当たり前すぎて笑うかもしれませんが、一応書いておきます。

心理セラピーを自分の意思で申し込んでくるクライアントから、「親を恨みたいんです」という要望は聞いたことがありません。そのような人たちは、どちらかというと「親を恨んでいる場合ではない」「自分が自由になりたい」というニーズをもっています。それを解決するために、ACという概念を使って情報やサービスを探したり、自己理解をしたり、自分を許す方法を探したりしているのです。

誰にも言えなかった親への怒りを心理セラピーで扱って、親の介護が楽になる(恨まなくてすむ)人もいます。原家族への愛を認めることで楽になる人もいます。つまり、結果的に親を恨まなくなる傾向があります。ただし、最初からそれを目指すのは方法としてお勧めしませんが。

美談を目指すわけではありませんが、少なくとも親を恨むことが「目的」「ニーズ」ではないのです。

一方で、心理セラピーのクライアントには多くないですが、「親のせいだから、セラピーなんかしたってムダだ」という態度の人はいます。そういう人にはAC(アダルトチルドレン)という概念はあまり役に立たないかもしれません。

家族機能不全の影響を受けた(と感じている)クライアントの心が恨みに満たされているとは限りません。恨みがクライアントを苦しめているのではなくて、「親を救いたかった」「親を見捨てられない」ということがクライアントを苦しめていることも多いです。

AC=親を恨む、みたいなのは偏見だと思います。

因果関係と恨みをセットにしない

「家族のせいだ」という言葉が出たとしても、それが「家族を恨みたい」という意味に聞こえる人もこのテーマのセラピストには向かないでしょう。

アダルトチルドレンという言葉の意味にしても、本人それぞれが持っているデリケートなものです。その言葉がどのように機能するかは、その人次第なのです。親を恨むための言葉とは限らない。

多くの場合、恨むとか恨まないとか、そんな単純なものではなくて、いろんな気持ちがそこには繋がっています。「親を恨んでいる」というのは支援者の単純解釈にすぎなくて、実際には言葉にならないことをたくさん含んでいます。

「恨んではいけない」というのもイマイチです。

いろいろな気持ちのなかには「恨み」も含まれているかもしれません。しかし、そうである場合も、恨みを持っているということと、恨むことが目的であるということは別のことです。

心理セラピーでは怒りを扱うワークも行います。そんなことをすると親への恨みが増すという意見もありますが、実際にはそうでもありません。親のせいにして生きる(幸せになる機会をあえて避けるとか、無意識的にわざと不幸になりやすいとか)道を選んだ人の方が、「怒りを表現してください」といってもそれをやれない傾向にあります。恨みを選んぶことは正しく怒れないこととを表裏一体であるかのようです。

マインドフルネスや脱フュージョンにおいて、「苦しい」を「苦しくないぞ」で解決するのではなくて、「苦しい」を「苦しみがここにある」というように外在化(脱中心化、脱フュージョン)してゆくことが勧められるのと同じことです。

「恨んでいる」「恨みたくなる」「恨んでいるわけではない」など、どれであれ、ありのままを受け入れることは必要です。

「どうやら親の影響があったように思う」と思うなら、それもそれとしてありのままを捉えます。

もちろん「アダルトチルドレンのチェックリストに当てはまったから私はアダルトチルドレンなのだ」などとクライアントが言っているならば、本などの情報ではなく自分の体験から語るように勧めます。でも、あんまりそういうクライアントはいません。

そして、多くの批判者が見逃しているかもしれないことは、「親の影響があった(因果関係がある)と思うこと」と、「恨むこと」も別のことだということです。

「因果関係を認めたら恨まないといけない」というルールは危険です。ACという言葉への批判の多くがこのルールを前提にしているようです。

多くのクライアントは因果関係をあったものとしながら、親を恨むなどの不自由な人生は手放します。

「因果関係を認めたら恨むはずである」と信じている専門家はACというテーマを扱うのは難しいだろうと思います。

恨みよりも奥深いもの

豪雨のせいで風邪をひいても、豪雨を恨まない人はいます。恨んでいるとしても、恨むことに人生を捧げないと言ったほうがよいでしょうか。

原家族が豪雨よりも難しい理由として、「こうであってほしかった」という叶わなかった期待が関係している場合もあります。そのような叶わなかったことへの想いとか、裏切られた想いとか、置き去りにされた自分とかをクライアントたちは大切に持っています。それを大切に救済するのが心理セラピーです。

「恨んではいけない」と引き返すか、恨みの奥にある大切な想いを認めに行くか、その選択があるのだと思います。

ですから、親を恨み続ける人と、「親を恨むことはけしからん」と言う人は、どこか似ているように感じます。どちらも、親への恨みにフォーカスしていて、その奥に会いに行くというニーズがないといいますか。

「恨んではいけない」に苦しむ人もいる

さて、どの家庭にでもあるようなことからACに苦しむ人もいれば、想像を絶するような体験をしてきているACな人もいます。

前者は「その程度のことで苦しむな」と言われ、後者は真実を訴えたら「そんなわけないだろ」と叱られてきたという歴史をもっています。

実は心理セラピーをしていると、「親のせいにするな」「親を恨んではいけない」と社会や自分から責められているということが苦しみの本質として浮かび上がることが少なからずあるようです。

「親のせいにしても幸せにはならない」というのはある意味で事実なのですが、「親のせいにしてはいけない」というのは強烈な暴力になるのです。それは正しさという強烈な腕力でねじ伏せられる体験となります。

「親のせいにしても幸せにはならない」と「親のせいにしてはいけない(親の影響があると言ってはいけない)」は別のことなのです。Kojunは前者は言いますが、後者は言いません。後者は暴力だからです。

前者にしても、「犬を怖がるのをやめたら犬恐怖症はなおりますよ」みたいな役に立たない正しさかもしれません。

「あなたの苦しみは間違いなんですよ」と言われる苦しみからどう抜け出すかというのが、心理セラピーに求められたりします。

つまり、クライアントは何が起きているのか、何を体験しているのかを、ありのままに語る必要があります。実はその目的は誰かを有罪にすることではないのです。

世間の多くの人たちは「親のせいにしても幸せにはならない」と「親のせいにしてはいけない」の区別がつきませんから、クライアントたちは何が起きているかを語ることを禁じられてきました。それは正しさという圧倒的な力でねじ伏せられる体験だったりします。なんせ「親のせいにしても幸せにならない」というのは正しいですから、ものすごい腕力をもっています。

正しさによって裁かれないために、苦しみを語ることなく生きてきたクライアントは、セラピーの場でも「苦しかった」となかなか言えません。なにがどう苦しかったかを言うと世間から悪として扱われるからです。しかし、それは奇妙な行動として人生を振り回してきているのです。

そんなクライアントたちのニーズは、真実を語ること、自分は嘘つきじゃないと信じてもらうことだったりします。

そんなずっと言えなかったそれを言える場があってもよいと思います。そのようなセラピーを終えたあとに親の悪口を言い続けるクライアントは見たことありません。

むしろ、親のせいにして生涯を終わりたくないからセラピーを受けに来るのです。

心理セラピーのプロセスは人によって異なる

親のせいにすることで苦しみが生じているクライアントには恨みを手放すことを促します。親のせいにすることで一時的に楽になるというアディクションのような場合ですね。ですが、そういう人に必要なのは心理セラピーというよりは、一時的に楽になるための他の方法、適度な依存先だと思います。

また、親のせいにすることを禁止されることで苦しみが生じているクライアントには恨みが言えるように促します。恨みというか、世間が聞いたら恨みと思われちゃうような体験や気持ちですね。

クライアントが「わたしの親はこんなにひどかったんです」と言うとき、その続きがあります。「うん、それで?」と聞きます。そして本当の苦しみの本質が語られます。親のせいにするかのような発言は、なにかの前置きにすぎないです。弁護士ではなく心理セラピストのところに来ているわけですから、なにかを引き受けようとしています。

またたとえば、親から「公務員にならないと人間失格だ」と教えられてきた人は、「それは親の考えであって、私の考えではない」と拒絶するワークをしたりします。それは「怒り」を使うワークとなりますが、親を攻撃したり、親を有罪として裁くものではありません。その考えを受け取らないぞと拒絶する自衛権行使のワークです。断るということと、攻撃することを区別することを学ぶのが「怒り」のワークの大切なことだったりします。

そのような場合も、親のせいなのか、親のせいではないのか、そこはゴールではないのです。親からそのような影響を受けたという仮説に基づいてそのようなワークをするのですが、目的は親の有罪を証明することではなくて、その影響を受け取らないということです。「受け取らないぞ」という態度をセラピストや同席者たちに証人のように目撃してもらうことが必要です。

親の影響であるという仮説は使っています。しかし、その仮説が外れていたとしても数十分使うだけですし、効果があればその効果を大切にすればよいです。実は本当は親の影響じゃなかったとしても、「やりたくない仕事をいやいや続ける」という呪縛が解ければそれでよいのです。どちらにしても親を恨む可能性は減ります。

ACは本人のための言葉

ACという言葉は専門家が人を判断するための言葉、診断名のようなものではありません。本人が普遍性(他にも似た人がいるのだという感覚)を感じたり、情報検索のために活用するための言葉です。

風邪のウィルスや腫瘍のように、取り除くべき原因を表しているわけでもないです。専門家が「あなたはアダルトチルドレンです」みたいに言うものではありません。

時代遅れの言葉だと嘲る専門家もいますが、この言葉を使って助かった人たちはたくさんいます。専門家が自分の知識は最新であると自慢するための技術用語ではありません。

「私、そうよ」と言ったらそうなのです。カウンセリングなどの現場では、「あなたそうよ」と言われて、「ああ、ACなんですね」という場合もあるにはありますが、基本的には自分で気づいて自分がそう思えば、誰からも文句を言われることのない、立派なACです。このように、自己申告という面があります。

信田さよ子『アダルト・チルドレン完全理解』p.184

この自己申告という考えは重要だと思います。自分で自由に付けたり外したりできる必要があります。

なんと呼ぼうともそこにはその苦しみがあるのです。そして、その苦しみの本質と関わって、AC(アダルトチルドレン)などは「原家族のことを扱いたい」というデリケートなニーズを表す言葉だろうと思います。

ウィルスや腫瘍のような原因ではなく、診断名でもなく、ニーズを表しています。

かつて、本人のニーズに関係なく「あなたはアダルトチルドレンです。親が原因です」と説明するのが流行り、後には、本人がアダルトチルドレンだと思うと言ったら「親のせいにしてはいけません」と否定するのが流行りました。どちらも専門家が判断を押し付けると言う点が共通しています。

支援を決定するときの考慮でいえば、「エビデンス-価値観-状況」の中で価値観の部分に相当するものだと思います。「親が原因だ」と言っているのではなくて、「親との関係や、親への想いを扱いたい」と言っているのだと思います。

そして、その悩みの原因というか、その悩みの解決の鍵は、ご本人の中にあるのですが、それに触れてゆくためには、関係性とかACという視点とかフィクション(喩え話やドラマ)使えるものはなんでも使うのです。

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