心理セラピーに「させる」はある!?

本人中心アプローチでも指示は出す!?

とある学会分科会で、心理セラピーでクライアントに指示を出すようなことについて、あるセラピストが「うちではクライアントになにか”させる”なんてことはないです」と言うのを聞いて、あっと思いました。

私の個人セッションも、本人中心ですから、「これが正しいからこうしなさい」って言うことは基本的にはないわけです。ところが、心理セラピーのワーク中には、言葉や動作や感情処理について指示は出している。これはどういうことなんだろうかと。

心理セラピーをするクライアントはKojunにガイドをしてほしいと依頼しているんですね。つまり、そのセッション自体が本人の意思で設けられている。なので、指示を出しながら本人中心が保たれるんだなと思います。さらに、内容についても本人の要望を中心においている。そういう意味でも狭義の「治療」ではないんですね。

日本でカウンセリングの神様みたいにされてきたカール・ロジャーズは「来談者中心療法」で有名ですが、それはかつて「非指示療法」と呼ばれていました。日本でもノンディレ(non direction)と呼ばれ標準的なカウンセリングでしたね。ロジャーズも本人中心=ノンディレではないと思ったようです。

だから、心理セラピーをやるってことを決めるまでが違う。

病院などの施設などでは、治療者が決めることもあります。ある精神科にカウンセリングできるか問い合わせたことがあるのですが、「まずは先生(医師)が診察して、カウンセリングしたほうがいいと判断した場合のみカウンセリングができます」との説明でした。

※医療や福祉などで「本人の許可を得ていますから」と言うのを聞きますが、本人の同意を得たから本人中心ということでもないです。

施設の場合は、治療者が判断するということが根底にあるように思います。

ある種の開業セラピストはクライアントがセラピストを指名して申し込まれます。

それは選択肢の中から選ぶという意味の指名ではなくて、「この人のセラピーを受けたいんだ」「この1時間この人の言う通りにやてみたい」という想いがあるという意味です。なので、意思はクライアントにあります。

なので、心理セラピーの中でセラピストからクライアントへ指示は出しているけど、上述のセラピストが嫌っているような意味で「させている」という感じではない。

その学会分科会での対話は「傾聴アプローチは本人中心だけど、指示を出すセラピーはが本人中心ではない」みたいな前提になっていたのですが、指示ありワークを行うまでの前提がかなり違うことになります。

心理支援者探しのヒント

セラピストを選んで申し込む以外にも、手法目当てで申し込む場合もあるでしょう。その場合は、その手法の権威(〇〇手法協会認定セラピスト)みたいなのを選びたくなるでしょう。

本人中心アプローチでありながら、セラピストの指示が出せるのは、こんな順になるでしょう。

人で選ばれたセラピスト > 手法で選ばれたセラピスト > 機関・資格で選ばれたセラピスト

ですから、次のような場合は、人で選ぶ必要がありそうです。

「外から矯正されてもよくならない 」(来談者中心であることを求めている)
かつ
「自分自身の考えでは上手くいかない」(ガイドを求めている)

あたりまえですけど。

医療現場の倫理検討では「医学的適応」(医学的な正しさ)と「本人の意向」というのが並べられて検討されるようです。少し昔は医師に患者が従うというのが標準でしたが、いまではインフォームド・コンセント(説明を受けて本人が決定する)というのが普及してきました。しかし、やっぱり素人が決めるのも問題があるみたいなことがあったのか、シェアド・デシジョン・メイキング(共同意思決定)というように医師(医療者)と患者で決定するというモデルが提唱されています。揺れているようですね。

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