ゲシュタルト療法の矛盾ぽいところについて

ゲシュタルト療法に限らないのですが、似たような心理セラピーを体験した人から「考えないで、感じてください」みたいなことを言われて困ったという不満を聞くことがあります。

現象学ってなんだ

ゲシュタルト療法は現象学を背景にしていて、次のようなことを重視しています。(用語は私なりに分かり易い言葉に置き換えています)

  • 評価しない(判断停止)
  • 比べない(水平化)
  • 解釈しない(描写)

セラピストもクライアントもってことだと思います。

「解釈しない」というのは「現象を捉える」または「現象と解釈を区別する」ということでしょう。たとえば、相手が苦笑いしたときに、「自分を馬鹿にしている」というのは解釈です。「苦笑いした」というのが現象です。現象は事実に近いですが、解釈は間違える可能性があります。ですので、ゲシュタルト療法ではクライアントの言動を解釈しないようにしましょうと指導されることがあります。現象学では、現象に注目することを「描写」とも言うようです。

「評価しない」というのは、良し悪しとか、正しいか正しくないかという判断をしないということです。それと似ていますが、「比べない」というのは2つ以上の事柄についての価値判断をしないということで、「水平化」とも言うようです。

ようするに、クライアントもセラピストも「いまここ」のあるがままを見ましょうということです。そこには感情もありますから、あるがままを見ることは味わうことでもあります。あるがままの自分の気持ちをしっかり味わうと、大切なことや、どうしたいかが見えてきたり、囚われから解放されたりするというのは心理セラピーの基本原理の一つかと思います。

陥りやすい矛盾

さて、そこでゲシュタルト療法では、クライアントが「いまここ」を味わうことができるように誘導したりします。そこでセラピストはクライアントが「いまここ」から離れていることに気づき、戻してゆくというわけです。具体的には、クライアントが思考モードになっているときに、感じるモードへと切り換えてもらうという場面がよくあります。

おやおや? クライアントが「いまここ」から離れているとか、思考モードになっているとかいうのは「解釈」ではありませんか? 思考モードが好ましくくて感じるモードが好ましいというのは「水平化」が崩れて比べていませんか?

そこだけはセラピストが拘る、でもそこだけ。というのがゲシュタルト療法の説明となるのかと思います。なので、グイグイとなっちゃいますね。

ですが、それをあえて矛盾と呼ぶのは、重箱の隅の屁理屈ではなくて、実際にそのような「解釈されたり評価されて抵抗しちゃった」という体験談を聞くことが多いからです。ゲシュタルト療法に限らず、「感じなさい」系のセラピーでよくあるこの話の背景にはこの矛盾があるように思います。

上手くいく場合

最初からクライアントが、考えずに感じるモードにすんなり入る場合は、この問題は起きないです。あるいはセラピストが解釈したり水平化や判断停止を破っても耐えられる筋金入りの(あるいは無頓着な)クライアントである場合も上手くいくでしょう。

Kojunの考え

それがゲシュタルト療法だということなのかもしれませんが、私はそれで上手くいかなかったと主張する人たちのために、より現象学っぽくアレンジしています。

この違和感から抜け出すには、「思考モードはだめよ」とか言うよりは、描写して現象に注意を戻すという実践が一般的でしょう。「いまは理由について語っていますね」「手に力が入ったようですね」とかです。そうすると水平化は保たれます、何が正解かは言わずに、現象だけを指摘するってことですね。

しかし、それをセラピストが言うってことは、セラピストは何か判断をしています。「理由の話をしているということは、クライアントは思考モードに入ったな」とかですね。

ちなみに、本当に何も判断せずに観えた現象を全て指摘してゆくという練習ワークがあります。「息を吸いましたね。目が左を見ましたね。足を引きましたね。眉毛がありますね・・・・」みたいな。見る側の練習としては面白いのですが、心理セラピーとしてやるには無理があります。描写をフィードバックするにしても、役立ちそうなフィードバックをする必要があります。

Kojunは「解釈してはいけない」とせず、「解釈していることを自覚する」というようにアレンジしています。「『クライアントは思考モードに入ったな』と私は仮定している」というように、『』に入れる作業を現象学ではエポケーと言ったりします。『』内は解釈だけど、「・・・仮定している」は現象と言ってよいでしょう。そうすると、仮定されたクライアントの状態を変えるようにガイドしてみるのか、そのように仮定している自分を変えてみるのか、さらに観察を続けるのかという選択肢が生まれてきます。

Kojunがガチ現象学ぽくなっているのは、理系出身だったり、学生時代に科学哲学や分析哲学なんかをやっていて、心理療法より前から現象学を知っていたからかもしれません。

解釈、評価、比べてしまうことも含めて、クライアントと一緒に「おやー、何が起きているんだあ?」を見てゆきます。正しいゲシュタルト療法をするつもりもないけど、このアレンジは現象学的にまあまあ正しのではないでしょうか。

※当サイトの記事には独自の意見や枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものでもありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。
※プライバシー保護優先のため、当サイトの事例は原則として複数の情報を参考に一般化/再構成した仮想事例です。

\(^o^)/

- protected -