カウンセリングについての議論で、こんな話題がありました。
ひどく苦しい状況の人に、こう聞かれたら、どう答えるか。
「なんで私(だけ)がこんな目に会うんでしょうか・・・」
これ、お気持ちのよくわかる、大きなテーマ(問い)ですよね。
試練には意味を見出すアプローチ
「この試練には何らかの意味があるはず」(実際にはもっと優しい表現で)という答えもあります。
実際にそういいう哲学のカウンセリング手法があるようです。そのような言葉が多くの人の支えになっているようにも思います。
感情を扱うアプローチ
しかし、私なら・・・その問い「なんで私がこんなめに」に答えない・・・ことが多いです。
追記:この記事を書いてから数年後、わりと答えることもあります。意味と感情の両方を扱うようになりました。
「自分で考えてください」と言うのでしょうか。そうも言わないでしょう。
非指示・傾聴スタイルで、黙って聴くのでしょうか。でもないです。
では、どんなふうになるか。あくまで例ですが…
「なんで私がこんな目に会うんでしょうか・・・」
「なぜでしょうねぇ」
「・・・」
「・・・悪くない人がひどい目に会う・・・おかしいですよね・・・理不尽ですよね」
(中略)
この世の理不尽さへの怒りを出してもらいます。ある意味では、何を言ってしまってもいいです。
「ふざけんな!ふざけんな! ×○△×○×△○!!!」
(中略)
理不尽さを嘆き、泣いてもらいます。泣いている理由もわからないくらいに。
(この涙は、最初に苦しさを訴えるときの涙と違い、その人を強くします)
クライアントは顔を上げます。宙を見つめて(またはセラピストを見て)、
「・・・そう・・・理不尽なんですよ・・・
とつぶやく。
小さく頷き、「それでも・・・、この理不尽な世の中を私は生きる」という選択をします。そのような選択をした人たちの仲間入りです。
でも、試練には意味があると思う
後日、クライアントは「この試練には意味がある」と言い出すかもしれません。それは、そう思えるように生きていくという、その人の選択です。
セラピストは、その人がそこにいることに、すでに意味を感じています。
「意味がありますよ」と言ってさしあげると、クライアントから好かれるかもしれませんが、それはしないかもしれません。
追記:
このような意味を問うような苦悩は人間特有のもので、最近の生物心理社会スピリチュアルモデルという研究領域では、心理的苦悩とは区別され、「精神的・実存的な苦悩(スピリチュアルペイン)」と呼ばれています。
追記:
見様見真似でやみくもに感情を出させるのが流行りました。そして今度は逆に感情を出すセラピーをやみくもに否定したりするのが流行ったりしているようです。どちらもクライアントから遠いところにいる感じがします。